『大統領の執事の涙』のモデルとなったユージン・アレンの生涯とは

『大統領の執事の涙』

『大統領の執事の涙』は2013年に公開された、リー・ダニエルズ監督のドラマ映画だ。

主人公はフォレスト・ウィテカー演じるセシル・ゲインズ。
セシルはアメリカ南部で綿花畑の小作人の息子として、父ともども奴隷のような生活を送っていた。2012年に公開された映画『リンカーン』でリンカーンは年に奴隷解放宣言を出し、を、修正を通、も依然としてアメリカに人種差別は色濃く残り続けた。セシルの母が農場主にレイプされても、彼は白人だからお咎めなし。それどころか、抗議した父親を射殺してしまう。
成長したセシルはある日、農場を脱走する。地獄のような環境から自由になれたと感じるのも束の間、町にはリンチによって殺された黒人の死体がぶら下がっている。
農場の外でも現実の辛さは変わらなかった。セシルは空腹に耐えかね、ケーキ屋のショーウィンドウを割って、店のケーキをむさぼり食う。

そして、その働きぶりが認められたセシルはホワイトハウスの給仕係としてスカウトされるのだった。

ユージン・アレン

このセシルには実在のモデルがいる。それがユージン・アレンだ。アレンは34年間ホワイトハウスに勤め、歴代大統領と時代の変革を目の当たりにすることになる。

ユージン・アレンは1919年にバージニア州バッキンガム郡のプランテーション農場で生まれた。ここで叔母と叔父に育てられてアレンは成長していくことになる。
1941年にアレンはメリーランド州ベセスダのケンウッド・カントリークラブでウェイターとして働く。
翌年にアレンはワシントンの誕生日パーティーで妻のエレーヌと出会い、その一年後に結婚。その後二人はチャールズという名の一人息子をもうけている。
アレンがホワイトハウスで働くようになったのは1952年。最初は皿洗いや食器の補充などの下働きからそのキャリアをスタートさせる。年収は24000ドル。当時の黒人の年収が20000ドルなので、黒人としては比較的経済的には恵まれていた。とはいえ、白人の平均年収と比較すると、その半分よりやや多い程度の額でしかなかった。

アレンは34年間、ホワイトハウスで働き、その間、8名の歴代大統領に仕えた。

ハリー・S・トルーマン
ドワイト・D・アイゼンハワー
ジョン・F・ケネディ
リンドン・B・ジョンソン
リチャード・ニクソン
ジェラルド・フォード
ジミー・カーター
ロナルド・レーガン

アレンはホワイトハウスに勤めていた中でも退任後も「好きな大統領は誰か」と質問を投げかけられた。アレンは決まって「全員好きだった」と答えた。もちろんそれは嘘ではなかったが、もう少しアレン自身の各大統領への印象やエピソードを紹介していきたい。

ハリー・S・トルーマンに対しては率直で正直な、庶民的な大統領であり、大きな功績を継承し、それを成し遂げた人物だと述べている。またアレンは 間違いなくジョン・F・ケネディに次ぐ最もおしゃれな大統領だと評した。

そのジョン・F・ケネディに対しては素晴らしい美貌と比類なきカリスマ性、そして冷静さを備えた人物であったと評している。だが、1963年ケネディはダラスで凶弾に倒れる。
黒人の地位を高める公民権運動を後押ししてきたケネディの死はアレンにとっても大きな衝撃であった。
息子のチャールズによると、「ケネディ大統領が暗殺された日、父は遅く帰宅した。しかし、起き上がってコートを着直し、『仕事に戻らなきゃ』と言った。しかし、廊下で壁に倒れ込み、泣き始めた。父が泣くのを見たのは、生まれて初めてだった」という。
しかしそれでもアレンは仕事を休まなかった。アレンは葬儀にも招待されたが、披露宴の準備のために仕事に残ることを選んだ。「葬儀から帰ってきた皆にサービスするために、ホワイトハウスに誰かがいなければならなかった」と述べている。
アレンはケネディ大統領暗殺後、妻であったジャクリーン・ケネディから大統領のネクタイを贈呈された。アレンはこの記念品を額装して自宅に飾り、大切にしていたという。

次のジョンソンについては、ベトナム戦争への抗議の声が激しくなり、ホワイトハウスの門の外での抗議が起きた時、アレンは大統領の胃を落ち着かせようと、ミルクとスコッチを何杯も注いだというエピソードがある。この時、実はアレンの息子もベトナムに従軍していたのだが、ホワイトハウスで働くことのプロ意識を重んじていたアレンはそのことについて自ら口にすることはしなかった。唯一、ジョンソンが「息子はまだ生きているか」と尋ねた時に「生きています」と答えただけだった。
アレンはジョンソンについて、非常にタフな人物であり、権力の行使に長けていると評した。そしてジョンソンの元で公民権法が成立したことについては、「何年か後にはジョンソンの公民権運動こそが彼の王冠の宝石となるだろう」と語った。

次に仕えたのはリチャード・ニクソンだった。今も不名誉な大統領の代表のように扱われているニクソンだが、アレンはリチャード・ニクソンを好んでおり、彼の下は働きやすいと述べている。

ニクソンの辞任後に大統領の地位についたジェラルド・フォードについては、庶民的な雰囲気を気に入っており、彼を当時のホワイトハウスで最高のアスリートだと呼んだ。
庶民的ということで言えば、フォードの「私はフォード(フォード・モデルT)であって、リンカーン(フォード・モーターの高級車ブランド)ではない」との発言も有名だ。フォードは7月14日にゴルフ場からよくアレンへ誕生日のお祝いを電話で伝えていたという。

あおしてあれ名hはロナルド・レーガン政権下で、ホワイトハウス執事の中で最も名誉ある地位のメートル・ドテル(給仕長)に就任した。アレンはレーガンに対してもカリスマ性を感じていおり、同年齢の男性としては並外れた立ち居振る舞いをしばしば称賛していた。
1986年10月、大統領夫人のナンシー・レーガンは、公式晩餐会に、アレン夫妻を賓客として招待した。アレンは公式晩餐会にゲストとして招待された初のホワイトハウスの執事となった。

アレンは同年、ホワイトハウスを去るが、ホワイトハウスに在籍した34年間で一度も休んだことはなかったという。

「雪がひどく降ったり、雨が激しく降ったりしても、毎日仕事に行かざるを得ませんでした。どんな予定があっても、家族にどんなことがあっても、大統領のために仕事の予定を変更したのです」

2008年、妻のヘレンは、バラク・オバマの選挙前夜に亡くなった。その後アレンはオバマ大統領の宣誓式にVIPとして招待された。アレンは涙を浮かべながら、初の黒人大統領が宣誓を行う様子を見守ったという。

2010年3月31日にユージン・アレンはメリーランド州タコマ・パークで亡くなり、ワシントンD.C.のロック・クリーク墓地に埋葬されている。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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