
映画評論家の淀川長治さんは小さな頃から映画少年であったという。著書『淀川長治 100万人の映画教室』のなかでも正月から映画館のハシゴをしていたなどのエピソードが披露されている。
ただ、淀川少年が観ていた映画は、私たちがイメージする映画とは大きく異なっている。当時の映画はサイレント映画なのだ。つまり、音楽もセリフもない、無声映画だ。
ただ、サイレント映画だからといって、その名の通り静かな作品であったのかといえばそうではない。
活動弁士
当時は字幕の代わりに、その作品を横で解説する専門の人たちがいた。それが活動弁士と呼ばれる人たちだ。映画が日本に入ってきた頃には「活動写真」と呼ばれていたが、活動写真を弁ずる者ということで活動弁士と呼ばれるようになったのだろう。
もっとも、当の弁士たちは「弁」と呼ばれることをひどく嫌っていたという。「弁」は確かに話すという意味があるのだが、その他の意味としては「処理する」などの意味もある。彼らにしてみれば、その弁舌は映画鑑賞を「処理」するための道具ではなく、それ自体が芸であるという自負があったのだろう。
彼らは関東圏では映画説明者、関西圏では映画解説者と自らを名乗っていたという。
淀川長治さんの映画解説も、それだけで単体の作品が発売されるほどの魅力的な語り口であった。
淀川さんはすでに30年近く前に亡くなっている。なので今回改めて動画サイトで在りし日の淀川さんの解説を観てみた。その解説はただの説明ではなく、一種のストーリーテラーでもあり、芝居でもあり、やはり独立したエンターテインメントとしても成立し得る魅力にあふれていた。
それらの根底には映画鑑賞を通して、活動弁士の「語り」にも多く触れていたことがあるのではないかと思う。
日本における活動弁士の歴史
日本で初めての映画
日本における活動弁士の登場は、日本で映画が初めて公開されたのと同時だった。
日本で映画が初めて上映されたのは1896年11月。鉄砲商人であった高橋信治によって神戸の神港倶楽部で行われた。この時の上映は、今のような映画をスクリーンに投影して大勢で楽しむものではなく、キネトスコープと呼ばれる機械の覗き穴から一人で映像を楽しむスタイルのものだった。だが、この時に持ち込まれた映画はわずかな尺しかなく、それ単体では興行として成り立たないほどのものであった。
加えてキネトスコープも当時の日本人には全く未知の代物で、その使い方の説明も必要となった。そこで場を持たせるための説明者も必要だとされた。これが活動弁士の始まりである(この時に弁舌を振るったのが、活動弁士の元祖と呼ばれた上田布袋軒だと言われている)。
日本初の映画館
ちなみに、キネトスコープを発明したのは、かの発明王トーマス・アルバ・エジソンだが、現在のスクリーン上映の方式の原型であるシネマトグラフを発明したのは、フランスのリュミエール兄弟である。
このシネマトグラフによるスクリーン上映は、この日本での映画初上映の翌年、稲畑勝太郎によって京都電燈株式会社の本社中庭にて初めて行われている。
そして、1903年には日本初の映画上映専門の映画館「浅草電気館」が開館。開館当初は海外から輸入されたサイレント映画を上映していたが、やがて国産映画が増えると、今でいう邦画の専門映画館となった。
活動弁士の役割の拡大
戦前において、映画は庶民の大きな娯楽だった。しかし、当時は字幕もなく、また英語に対する理解度もほぼなかった時代。海外のサイレント映画においては、とりわけ活動弁士の果たす役割は大きかっただろう。
最初は上映前に数分間、前説として上映される作品の解説を行っていた活動弁士も、俳優のセリフを話すようになり、更にはそれぞれの登場人物の声色を使い分けたり、サイレント時代の末期になると、ついには弁士自身の話芸を聞かせるようにとその活動内容は徐々に拡大していった。最盛期には日本全国で7,500名前後の活動弁士が活動していたという。
観客にしても、映画を選ぶ基準が作品の内容よりも「どの活動弁士が解説しているか」が映画を選ぶ基準となった。今でいうインフルエンサーのような役割も負っていたわけだ。
少年時代の淀川長治さんの回想にも、活動弁士に関するものがある。今となっては大変貴重な内容だと思うので、ぜひ紹介させていただきたい。『淀川長治 100万人の映画教室』より一部を抜粋しよう(べんし=活動弁士)。
「一日に五回興行六回興行。当時はサイレント時代だからべんしがつく。そのべんしもこれではたまったものではない。もはや重労働だ。だからヤケクソになってドタバタ短篇では勝手きままなしゃべり方をする。競馬の黒人騎手が眠り薬を呑まされて馬小舎で眠ってしまう。その眠りこんだ騎手の顔のクロース・アップ。その顔が眠ったままニヤリと笑う。するとべんしが『よんべ福原へ行ったってん』とネゴト。さらにこのようなアドリブがどんどんべんしの口からとび出して、アメリカ映画の画面の俳優がべんしの勝手な関西べんで『あんたアホか』『そやかて、しょうないねん』『もうあんたと別れさしてもらいまっさ』『せっしょうなこと言わんといて』これがユニヴァーサルのベティ・カンプスンとリー・モーランの画面での会話なのだ。客にはそれがまた大受けで爆笑の連続だ」
さすがに『散りゆく花』などのシリアスな作品でこういう事はなかっただろうが、しかし、活動弁士が庶民にとって映画への入り口を広げ、楽しむ上で想像以上に大きな役割を果たしていたのは事実だ。
実際に人気弁士の番付表などというものもあり、人気のある弁士はスターのような扱いを受け、歌舞伎のような礼賛の掛け声がかかることさえあったという。さらにトップクラスの人気弁士になると、スター俳優や当時の総理大臣クラスの給料を得ていたとも言われている。
免許制への移行
しかし、活動弁士の中には適当なことを述べる者もおり、1917年、警視庁によって活動写真興行取締規則が公布され、弁士は免許制となった(免許の有効期間は3年間であったという)。この法律の適用範囲は警視庁管轄の東京市内の映画館、映画興行が対象だったが各都道府県もこの法律を参考にした。同法の内容は弁士の免許制の他にも、今でいうレイティングや、呼び込みの禁止、男女で席を分けることなどが決められていたという。
衰退の始まり
1927年にはハリウッド映画の『ジャズ・シンガー』が世界初のトーキー映画として公開される。また1931年からは洋画にも字幕が付くようになった。それを境にサイレント映画は縮小していき、活動弁士の仕事も需要がなくなっていく。多くの活動弁士が漫談や講談師、紙芝居、司会者、ラジオ朗読者などに転身する一方で、転身を果たせず、大きな挫折を味わい、自ら命を絶つ者も存在した。
世界的な映画監督、黒澤明の実兄である須田貞明もその一人だ。
須田貞明はその本名を黒澤丙午と言った。もともと画家志望であった黒澤明に映画とロシア文学の魅力を教えたのは丙午だった。この兄なくして映画監督黒澤明は誕生し得なかった。
そしてこの兄の自殺も黒澤明に大きな影響を与えている。丙午は非常に厭世的な人物であったとされるが(黒澤明によると丙午は「30歳になる前に死ぬ、人間30を越すと醜悪になるばかりだ」と口癖のように言っていたという)、黒澤明は対照的にそのヒューマニズムを全面に押し出した作風で知られる。そこには兄の自殺への批判的な想いもあっただろう。
現代日本における活動弁士
ちなみに、活動弁士自体は現在でも全くいなくなったわけではない。今でもサイレント映画を上映する映画館は存在しており、日本全国で20名ほどの活動弁士が活躍している。