『GODZILLA』果たしてこれはゴジラ映画か?賛否両論の問題作を紐解く

数あるゴジラ映画の中でも最も特異な存在として、1998年に公開された『GODZILLA』があるだろう。
日本のゴジラとあまりに違う、まるで恐竜のような姿、そして通常兵器であっけなく死んでしまう脆さ。

ゴジラ映画ではない

ゴジラの熱烈なファンとしても知られる映画監督のジョン・カーペンターは「最低だ!」とコメントし、同じく映画監督のギャレス・エドワーズは「あれは本当のゴジラ映画ではない」とコメントしている(ギャレス・エドワーズは2014年に『GODZILLA ゴジラ』を監督し、こちらは絶賛されている)。
そして、ゴジラの生みの親である日本においても、本作は厳しい評価を受けることとなった。

ゴジラvsデストロイア』など平成ゴジラでスーツアクターを務めた薩摩剣八郎は「これはゴジラではない。ゴジラの精神がない」と言い放った。また、『怪獣大戦争』、『ゴジラvsキングギドラ』などのゴジラ映画に出演した土屋嘉男は、本作品を「イグアナの映画」と呼び、「この映画の製作者は東宝に使用料を払う必要はないだろう。ゴジラではないのだから」と切り捨てた。
「アメリカ版ゴジラがミサイルから逃げようと走り回っているのは興味深い…アメリカ人は腕で倒せない怪獣を受け入れることができないようだ」

『GODZILLA』の監督を務めたローランド・エメリッヒ自身、
「当初、隕石が地球を襲う映画の企画をしていたが、東宝から突然本作品のオファーが来た」
「自分には知らされずに契約が進行していた」
「着ぐるみの怪獣映画には全く興味などなかったが、強い押しがあったので仕方なく受けた」
「今度は『ゴジラが人を食べない』といった細かいルールを提示されたので嫌気がさしたので、いい加減な脚本とデザインを提出し『これなら、あちらから断るだろう』と思っていたらゴーサインが出てしまい、仕方なく撮影に入った」
「自分が本来作りたかった隕石に関する映画の企画が本作の影響で流れてしまった」
などと述べている。

まぁ、これは2014年のインタビューであり、さらにギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』の公開前のタイミングに関連してのものであったことには留意する必要がある。
『GODZILLA』公開当時から今現在に至るまでの根強い批判の声に対して態度を硬化させている面もあるのだろう。

ゴジラを愛する人々に喜んでもらえるものではなかった

『インデペンデンス・デイ』でも製作・脚本としてローランド・エメリッヒとタッグを組んだディーン・デヴリンは、『GODZILLA』の企画にもエメリッヒを引き入れる。
当初ハリウッド版ゴジラはゴジラの大ファンでもあるヤン・デ・ボンが高倉健主演で撮影する予定だったのだが、製作費がかかりすぎるということで頓挫していた。
そんな中でエメリッヒは「ヤン・デ・ボンより安く作れる」と言って、ハリウッド版ゴジラの監督に就任したといういきさつがある。
しかし、ディーン・デヴリンは、ローランド・エメリッヒに監督を任せたことは大きな間違いだったと述べている。

「大きな問題のひとつは、私がローランドにあの映画を撮らせたことだろう。私はゴジラの大ファンで、ゴジラを観て育ったが、ローランドはそうじゃなかった。ゴジラに強い情熱があったわけではないんだ。彼が情熱を持てるストーリーを一緒に作ることはできたし、映画に情熱はあったと思うが、そのやり方はゴジラという存在に敬意を払い、ゴジラを愛する人々に喜んでもらえるものではなかった」

日本のゴジラの「物足りなさ」

私自身もこの作品には複雑な思いがある。
「最低だ」
その一言ではどうしても終わらせられないのだ。

本作が公開された当時、私は11歳だった。ハリウッドがゴジラ映画を製作するという話は、公開の数ヶ月前から耳にしていた(ネットのない時代の情報速度なんてそんなものだ)。
その当時、邦画とハリウッドの間には大きな大きな壁があった。どう言えばいいかわからないが、「日本でも本気を出せば、ハリウッドに負けないCGができる」そう豪語して完成したものがかの珍作『北京原人』だったりしたのだ。

ゴジラ映画もその一つで、やはり『ジュラシック・バーク』を観てしまった後にはイマイチ物足りなさを感じるようになった。これはCGのレベルという話ではない。そもそも『ジュラシック・パーク』自体、CGを使ったシーンは映画全体でも6分程度というのは有名な話だ。
そうではなく、演出一つにしても、ゴジラ映画にはハリウッドのような工夫がイマイチ足りていなかった。予算は関係ない。前述の『ジュラシック・パーク』では、コップの水一つでティラノサウルス・レックスの巨大さと恐ろしさを表現してみせた。

対して日本のゴジラ映画はどうだったか。ミニチュアの建物が破壊されると、必ずと言っていいほど火花が出る。ゴジラが撃たれてもそうだ。
そもそも火花は電気がショートしたときか、金属が石や金属同士で激しく擦れ合う場合でないと発生しない。実際のビルの崩落では、映像からは火花などほぼ確認できないし、ゴジラから火花が出るなんてありえないのだ。そして、ありえないものを半ば定番の演出として提示されても、観ている方はシラケるだけだ。

そんな中での『GODZILLA』である。果たしてハリウッドが日本のゴジラをどう料理するのか。期待するなという方が無理だろう。例えゴジラのルックスがいかにも生物的な恐竜のような姿だったとしても。
いや、正直に言えば、そんなゴジラの姿も当時の私は素直に受け入れる事ができたし、『ジュラシック・バーク』以後の恐竜型モンスターのデザインとして、ああいう形になるのは至極当然のこととも思っていた。私もゴジラの姿が発表されると、確かに始めはすごく驚いた。だが、そのゴジラの姿をチラシの裏やノートの片隅に何度も何度も落書きして描いたのを覚えている。

第一作の製作者たちが、今『ゴジラ』を作ったら?

ローランド・エメリッヒは「第一作の製作者たちが現代のSFX技術を持っていたらどのような映画になったか」を意識して『GODZILLA』を製作したという。
実は今回私が『GODZILLA』を取り上げようと思ったのもエメリッヒのこの言葉がきっかけだった。

「これはゴジラではない」や、GINO(ゴジラとは名ばかり)など散々な評価の本作ではあるが、例えば今の時代に本多猪四郎や円谷英二が生きていたら、ゴジラをまさかあの直立姿勢の怪獣にはデザインしないだろう。頭と尾が水平に近い、『ジュラシック・パーク』のに代表される恐竜のイメージをベースにゴジラを創造したのではないか?

ゴジラが核実験の産物であるという点に関しては同じハリウッド版ゴジラでも、ギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』よりも明確に描かれてる(ただ、その核実験を行った国がアメリカではなくフランスという設定にしているのは、やはりドイツ出身であるローランド・エメリッヒのアメリカへの忖度を感じさせるが)。

確かにエメリッヒ版のゴジラが弱いのはその通りだ。欧米は帝国主義に代表されるように、歴史のうえでも先住民を虐殺し、それまでの歴史を破壊して、戦争を繰り返しながら自分たちの国を作り上げてきた。その過酷さと傲慢さにおいてモンスターは崇めるものではなく、乗り越えるべき壁であった。そこか日本におけるモンスター(怪獣)の考えとは大きく違うところだろう。
それは一神教の国と多神教の違いとも言えるかもしれない。日本はどちらかと言えば多神教であり、神社にはそれぞれ多くの神々や人、木や石なども含めて「神」として祀られている。
不動明王のように、ときに神は荒ぶる存在として、人間に戒めを与える。それか日本人の「神」に対する思いであり、ゴジラの中にも「神性」を感じてしまう理由の一つだろう。

『GODZILLA』の功罪

だが、個人的には『GODZILLA』があったからこそ、日本におけるゴジラ観も完成されたのではないかと思うのだ。
エメリッヒが従来のイメージを覆す『GODZILLA』を撮ったからこそ、逆に「正しいゴジラとはこうだよね!」という共通認識が出来上がった部分も否めない。
エメリッヒの『GODZILLA』を「ゴジラではない」と言い切るのは簡単だ。しかし、『GODZILLA』のような演出力、自由さを当時の日本のゴジラ映画が持ち得なかったのもまた事実ではないか。

ちなみに、『GODZILLA』には続編のプロットが存在しており、その内容はゴジラファンも納得できるものと一定の評価もされているようだ。
エメリッヒがゴジラに辛辣になっているのは、そうした『GODZILLA』の全体像を人々に見せることのできなかった悔しさもあるのかもしれないと思う。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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