
このサイトではゴジラに対してばかり言及しているが、実は幼少期からウルトラマンも夢中になったキャラクターの一つだ。幼稚園のころにはウルトラマンのゴム製の人形付きのお菓子をいつも買ってもらっていた。大人になってからも好きなのはずっと変わらない。24歳のクリスマスには唐突にリアルウルトラマンのフィギュアが欲しくなり、福岡市の天神中を探しまくった(結局まんだらけで無事購入)。
『ゴジラ』はその出発点が被爆事故ということもあり、大人になっても視点を変えて観ることのできる作品だ。いや、むしろ大人になってから本当のメッセージに気づけるようになると言ったほうが正しいだろうか(すみません、本編に行く前にもう少しだけ語らせてください)。
ウルトラマンとゴジラの違い
『ゴジラ』の原点はアメリカで人気となっていた特撮映画『原始怪獣現る』と反戦や反核への想いだ。ゴジラを撮った本多猪四郎は実際に8年間を軍隊生活に費やしたのもあり、反戦・反核への想いは人一倍強かった。戦争が終わり、中国から日本へ復員する際に見た広島の光景はずっと忘れられなかったという。
もちろん、『ゴジラ』は当時の最高峰の特撮技術が注ぎ込まれたエンターテインメント作品でもある。そこで大きな手腕を発揮したのは「特撮の神様」と呼ばれた円谷英二だ。
円谷英二と『ウルトラQ』
『ゴジラ』の世界的なヒットの後、円谷英二は円谷特技プロダクションを立ち上げる。映画の仕事と並行して、テレビでの特撮ドラマとして企画されたのが『ウルトラマン』の前身となる『ウルトラQ』だ。
『ウルトラQ』は怪獣と人間が戦う設定だが、『ウルトラマン』では人型の巨大宇宙人が怪獣と戦う。これは当時善玉化していたゴジラからの影響もあるのかもしれない。
当時の東宝はゴジラの積極的な海外公開で外貨を獲得することにも成功していた。『ウルトラQ』そして後継の『ウルトラマン』も同様に海外販売を前提に制作された番組だ。
だが、『ゴジラ』が全年代をターゲットに製作されたのに対して、『ウルトラQ』は児童向けの作品だった。また、『ゴジラ』にあった反戦・反核などの強烈な社会へのメッセージよりも『ウルトラQ』『ウルトラマン』ではエンターテインメント性に重きが置かれている。
『シン・ウルトラマン』
庵野秀明が『シン・ゴジラ』の次に手がけた作品が『シン・ウルトラマン』だ。主演は斎藤工、長澤まさみらが務めている。
こちらもシリアスな政治映画とも呼べた『シン・ゴジラ』と比較すると、架空性と娯楽性の高いエンターテインメント作品に仕上がっているように思う。
ゴジラが登場する事以外は徹底的にリアルに仕上げたと自負する『シン・ゴジラ』に比べると禍特対(初代ウルトラマンに登場する組織「科学特捜隊」に相当する組織)など、架空の組織がメインであったり、フィクション性が強い。
『シン・ウルトラマン』の舞台は怪獣(今作では禍威獣)が日常的に姿を現すようになった日本だ。自衛隊だけでは対策できなくなった怪獣たちへの手段として、5人のエキスパートを集めて組織されたのが防災庁・禍威獣特設対策室(略称:禍特対)だ。
ここまではダイジェスト方式で
- ゴメス
- マンモス
- フラワー
- ペギラ
- ラルゲユウス
- カイゲル科特隊
- パゴス
が登場する。いずれも『ウルトラマン』ではなく、『ウルトラQ』に登場した怪獣だ。
つまり、『シン・ウルトラマン』では、両作が同じ世界観で連続した出来事だと設定されている。
幻の『ウルトラQ』
ここで少し横路に逸れるのを許してほしいが、次は『ウルトラQ』に関しては1990年代に映画化の企画があったのだ。
監督を務める予定だったのは、のちに『ガメラ 大怪獣空中決戦』を手掛ける金子修介。
黒澤明の『夢』に触発されて、こちらもオムニバス形式で映画化することを企画していたという。そしてこの時もマンモスフラワーを登場させる予定だったそうだ。
結局、金子修介版『ウルトラQ ザ・ムービー』はスポンサー絡みの問題から頓挫してしまうが、金子修介は後に監督を務める『ガメラ2 レギオン襲来』において、レギオンと共生する植物、レギオンプラントを登場させ、マンモスフラワーにオマージュを捧げている(『ウルトラQ』は『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』として1990年に実相寺昭雄監督で映画化されている)。
樋口真嗣と『ウルトラマン』
ちなみに平成ガメラシリーズで特技監督を務めたのは、『シン・ウルトラマン』でも監督とVFXを担当した樋口真嗣。
実は樋口真嗣はアメリカで制作されたウルトラマン作品『ウルトラマンパワード』にも参加している。ただ、樋口真嗣にとって、その『パワード』は誇ることのできない仕事だったという。
『 ウルトラマンパワード』は1993年にアメリカで放映された『ウルトラマン』シリーズだ。映画の本場であるアメリカでの仕事がなぜ「誇れないもの」になったのか。金子修介の書作『ガメラ監督日記』から引用して紹介しよう。
「樋口氏は大きな写真帳を持ってきた。それは『ウルトラマンパワード』の特撮現場進行の記録である。 前半は、アメリカのスタッフが作ったビルのミニチュアが、いかなる代物かを撮ってある。白く塗った段ボール箱に窓の四角い穴を開けただけのようなのっぺりしたものが、無造作に置かれてあり、これでは怪獣をいくらリアルに作ってもただのキグルミにしか見えない。 そこで、樋口氏や三池氏が何の権限も持たされていなかったにもかかわらず、ミニチュアの改造に乗り出した、というスナップが続き、最後には本物と見間違うばかりのアメリカのビル群が、スチールとして撮られている。 一つ一つのビルが精巧に細工されただけでなく、まちまちの大きさと個性、位置を持っているために微妙にずれ、電線なども少したるませたりして、それを望遠で人間の目の高さで撮ってあるので、リアルに見えるのである」
樋口真嗣にとっても今回の『シン・ウルトラマン』は積年の想いをぶつける作品になったのではないか。
ウルトラマンの登場
そして、次に日本に襲いかかる怪獣がネロンガだ。発電所から吸収した電気で放電攻撃を使うネロンガには禍特対もお手上げ状態になってしまう。そんな中、ネロンガに襲われている集落に子供が1人残されているのを科特隊のメンバーである神永が見つける。
現場へ向かう神永だが、時を同じくして空から隕石のような物体が落下。皆が固唾を飲むなかで人間の形をした銀色の巨人が姿を現す。
その巨人は手から出す猛烈な威力の光線(スペシウム光線)でネロンガを撃退、続く禍威獣ガボラも同様に撃退する。人間の味方のような行動をとる巨人は「ウルトラマン」と命名され、「ウルトラマンは地球で禍威獣との闘いに身を投じていく。
『シン・ウルトラマン』と『シン・ゴジラ』
さて、この『シン・ウルトラマン』だが、オムニバスに近いストーリーで構成されている。そのため、『シン・ゴジラ』に比べるとどうしてもカタルシスには欠ける部分がある。個人的には同じ「シン」シリーズとしてもこの二作は非常に対照的な作品に思えてしまう。
その一つがキャラクターの設定だ。『シン・ゴジラ』におけるゴジラは、トライスター版のゴジラ(ローランド・エメリッヒの『GODZILLA』のことだ)ほど独創的ではないにせよ、それまでのゴジラと比べると見た目にも大きな違いがあり、かつ放射火炎も口からのみならず、尾の先端や背びれからも出すことができるなど、それまでのゴジラのイメージを完全に覆している(おまけにヘビのように下顎が外れたりもする)。さらに段階を経てゴジラの姿に進化していくという設定もそれまでのゴジラ映画には全く無かったものだ。
比べて、『シン・ウルトラマン』はどうかと言うと従来のウルトラマンとその姿はほとんど変わりがない。大きな違いとしてはカラータイマーがないこと。そのために3分という制限なしに戦うことができる。そして俗に「ウルトラマンの目玉」とも呼ばれている眼孔が無いことだ。
だが、それは新しいことではなく、元々のウルトラマンのデザインにはそれらは全くないものだったのだ。
『ウルトラマン』のデザインを務めたのは彫刻家としても活躍していた成田亨。
『シン・ウルトラマン』のウルトラマンこそが、本来成田亨がデザインしたウルトラマンであった。
成田亨のウルトラマン
成田亨はウルトラマンに対して、善なる存在だから、とにかく強く、そして美しいものでなければならないと考えていた。ウルトラマンの美しさにふさわしい表現はシンプルであることだった。
成田亨の著書『特撮と怪獣 わが造形美術』には、ウルトラマンの初期デザイン画が載っているが、兜のような角があり、顔周りも角張ってごちゃごちゃしたスタイルなのである。
シンプルで美しい。改めてウルトラマンの姿を思い浮かべると、まさにこの言葉が実感を持って迫ってくる。
だが、成田亨にとってのウルトラマンは、我々がテレビで目にしたあの姿よりも、より削ぎ落とされたシンプルな美しさを持ったキャラクターだった。
成田亨はウルトラマンのカラータイマーについて、次のように述べている。
「僕は(カラータイマーには)反対だった。『ウルトラマン』は宇宙人でしょう。『ウルトラマン』は宇宙の人間です。宇宙人も人間であると、僕はそう思っていました。 それが危なくなったら、ピコピコいうのはおかしいじゃないですか。ピコピコったらロボットでしょう。 だから僕は、『ウルトラマン』のエネルギーが切れかけたら、目の光を弱めるとか、顔の色をライティングで青くするとか、なんか他に考えられないかって提案した。 でも、どうしてもこれつけてくれって言う。場所は、やっぱり胸につけてくれって言う。目立つようにってことでしょう。ただ、大きさとか形とかそこまでは注文はなかった」
成田亨はウルトラマンが明らかにブーツとわかるものを履いていたり、手袋をつけていたりするのには反対だった。
当時の特撮技術では仕方なくそれらを着用せざるを得なかったが、今作においてはそうしたものは排され、当初の成田亨が理想としたウルトラマンに限りなく近い姿となっている。
『ゴジラ』における人間と『ウルトラマン』における人間の違い
また、人間の描かれ方も違いがある。『シン・ゴジラ』には人間の愚かさや無力さが見え隠れしているが、そもそもゴジラという怪獣そのものが、人間の愚かさなしには成立しえない存在ということだ。
ゴジラという怪獣の成立に核兵器は欠くことのできないものであり、そのような核兵器を生んだ人類の罪を罰する存在がゴジラだとも言える。
比べて、『シン・ウルトラマン』で描かれるのは人間の美しさだ。終盤でゼットンとの戦いにおいて、異次元に飛ばされたウルトラマンの前に同じくM78星雲からの使いであるゾーフィが現れる。ゼットンの黒幕であり、人類が滅びたところで宇宙には何の影響もないと言い切るゾーフィに対し、ウルトラマンは人間のすばらしさを知り、自らの命を与えてまで、人間を生かそうとする。
1960年代、核兵器のメタファーであったはずのゴジラが子供のヒーローへと変化していくのに対して、第一作目の『ゴジラ』を監督した本多猪四郎は内心忸怩たる思いがあったそうだ。対して特技監督を務めた円谷英二は、子供にウケるような演出を積極的に取り入れていたという(『怪獣大戦争』でゴジラが『おそ松くん』のシェーを行う描写があるが、これも円谷英二がそのアイディアを積極的に取り入れたことで実現している)。
円谷英二は生前、自らの手掛ける作品について次のような想いをこめていたという。
「観ている人に驚きを与え、その驚きを糧に平和や愛を願う優しさをそして未来に向かう希望を育んでもらいたい」
その想いは『シン・ウルトラマン』にこそ、これ以上なく色濃く受け継がれているように思えてならない。