『この本を盗む者は』なぜ私たちは本を読むのか?

きっかけはYUKIだった。普段アニメにはさほど興味のない私だが、映画館の予告編で流れてきたテーマソングの歌声につい惹かれてしまった。その作品が『この本を盗む者は』だった。
そういえば『ペンギン・ハイウェイ』を観たきっかけも宇多田ヒカルが主題歌を担当していることだったし、何がその映画を観るきっかけになるか、本当に分からないものだ。
『この本を盗む者は』を観たのは2025年の大晦日。一年の最後を締めくくる映画を少し冒険してみても悪くはない。
とはいえ「本」をテーマにした内容に惹かれるものはあった。

ブックカース

物語の舞台は「読長町」という、本屋が溢れ、本の一大名所となっている町だ。そこには御倉館という、御倉一族しか立ち入ることのできない、巨大な蔵書室があった。なんとその冊数はゆうに20万冊を超える。かつては御倉館には誰でも立ち入ることができたが、御倉館を建てたの娘、たまきがの死後、御倉館を封鎖し、外部の者を立ち入らせない様にした。たまきは人間よりも何よりも本を愛した。
たまきは御倉館のセキュリティ対策として、一般的なホームセキュリティとは別に「ブックカース」という呪いを御倉館の本すべてに掛けたという噂もあった。

ちなみにこのブックカースだが、その作品独自の設定ではなく、中世において実際に行われていたものだという。
例えばサン・ペドロ修道院の本には次のような言葉が記されていた。

この本を盗んだ者、あるいは、借りて返さない者、その手を蛇に変え、引き裂いてしまえ。
麻痺になり、関わったものは呪われろ。助けを請うくらい痛みで泣き叫び苦しめ。
死んでしまうまで、苦しみが続け。
本の虫よ、彼が最後の罰を受ける時、その体を食ってしまえ、地獄の炎よ彼を燃やし尽くせ。

原作者の深緑野分は物語の着想のきっかけにブックカースがあったという。

「印刷機がない時代は、修道士たちが手で一文字一文字、聖書を紙に書き写していたんですね。ものすごく労力がかかるものだからこそ、盗まれてしまったらものすごく困るんです。だから、「ブック・カース」——この本を盗む者には呪いがかかる——のお札を本に貼って、盗難防止をしていた。このお札を、小説で使えないかなぁと考えていきました」

御倉深冬

『この本を盗む者は』の主人公は、御倉たまきの孫にあたる、御倉深冬だ。深冬は御倉の人間でありながら、物心ついたときから本を嫌っている。たまきに本を読むことを「強制」され続けた上に、御倉の一族の一員であるがゆえに、煩わしいことに巻き込まれることも珍しくなかったからだ。
しかし、ひょんなことから、真白と名乗る不思議な少女と出会い、御倉館から盗まれた本を取り戻していくことになる。

街から消えゆく本屋

『この本を盗む者は』はジャンルで言えばファンタジーということになるのだろうが、この作品の本質は「本の魅力」を再確認することにあるのだと思う。
活字中毒という程ではないが、私は本が好きだ。どんな商業施設があろうが、たいていは本屋と映画館、楽器屋くらいしか行かない。

しかし、一方で町中から書店がどんどんなくなっているのも事実だ。
自分の生活圏内(福岡市内)の話ではあるが、ここ10年を振り返っても

・中央区天神の福岡ビルのTSUTAYA
・中央区天神の国体体道路沿のTSUTAYA
・同じく国体道路沿のBOOKOFF
・南区の日赤病院でのTSUTAYA
・西区姪浜の駅前のBOOKOFF
・早良区西新の金文堂
・中央区天神の福岡パルコの本屋
・中央区天神のジュンク堂(なくなったわけではないが、移転してからかなり規模が縮小してしまった)

と本に触れる機会は少なくなっている。

本に触れるということ

もちろん、これだけをもって安易に「本離れ」という気はない。CDがダウンロードやストリーミングに取って代わったように、紙の本よりも電子書籍の方が優れている面も多い。
だが、本を読む代わりにスマホやゲームに夢中になる子供も少なくはない。

読書の効用はすでにさまざまなところで論じられているのでここではあえて言わずにおくが、こと小説においては、読む者を別世界へと誘うエンターテインメント性と想像を喚起させることにあるのではと思う。
もちろん、ドラマも映画もエンターテインメントという意味では同じだが、小説においては文章がすべてだ。そのために読み手自身の想像力が小説の世界を作る上で不可欠であり、作者と一種の共犯関係を築けるところに唯一無二の魅力があるのではないだろうか。そのためのすべてを文字だけで実行するという意味で、たしかに文学は芸術でもあるのだ。

読書の魅力

しかし、御倉深冬はまだそんな本の魅力を知らないでいる。
先に述べたように小説は「違う世界へ読者を連れて行ってくれる」とは言うが、ブックカースという呪いの発動によって、この「本の世界」が文字通り深冬たちの暮らす世界そのものとなる。頭の中だけでなく、実際に存在するものとして現れるのだ。
この描写を文字でなくアニメーションで表現できるのは映画の強みだろう。
深冬は本泥棒を捕まえながら、この「呪い」とも戦うことになる。果たしてブックカースの正体とは何か。

深緑野分の『空想の海』には本作のスピンオフとなる短編『本泥棒を呪う者は』が収められており、たまきの口を借りて読書の魅力がこれでもかと語られている。

「要するに本とは、無数の言葉を書いてまとめ、読むためのものなんだ。物語、詩、学術、日記、哲学、それらが書かれた本には、数千から数十万の文字が記されている。それもただの文字ではない。読むことによって世界は広がり、あり得ないものが見え、遠くへ旅し、一度の人生では経験し得ない物語を味わえる。見た目はこんなに薄っぺらい代物なのにね。本は圧縮された小宇宙なのさ」

「すべての本はそれぞれに億の価値を秘めている。時に知識を教え、時に世界を作る。特に物語は、ひとつの話でもうひとつの地球を生むほどの力がある。物語につけられた心の傷は一生癒えないし、読書の思い出は誰とも共有できない、大切な宝だ」

歪ではあるが、確かにたまきも作者のオルターエゴ(もう一人の自分)なのだと思う。「話の中でちゃんと否定したいと思ったのは、好きになることを強制される辛さ」だと深緑野分は述べているが、小説家として改めてほんの素晴らしさを伝えたい想いもあったのだと思う。

映画監督のクリストファー・ノーランはインターネット嫌いで知られており、ノーランの監督作『インターステラー』では、本が物語の謎を解決する重要なアイテムになっている。
ノーランは『インターステラー』で本を使ったことに対して次のように述べている。

「書物は知識の歴史的な体系だ。ネットのつまみ食いの知識ではそのコンテキストが失われてしまう。だから『インターステラー』では父が娘に思いを伝える道具に本棚を使ったんだ」

 

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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