『座頭市』

『座頭市』

『座頭市』と言えば、一般には勝新太郎の代表作と言えるだろう。
勝新太郎の『座頭市』シリーズは映画では26作、ドラマでは3作、舞台版も制作された。

だが、1987年生まれの私としては、『座頭市』と言えば、北野武が頭に浮かぶ。
北野武の『座頭市』を語るには、大きく二つの切り口がある。座頭市映画の一つとして捉えるか、キタノ映画の一つとして捉えるかだ。
残念ながら、座頭市映画を語るだけの教養は今の私にはない。今回はキタノ映画の一つとして『座頭市』を解説しよう。

金髪・碧眼の座頭市

『座頭市』は2003年に公開された北野武監督・主演の時代劇映画。
それまでのキタノ映画にはなかった、時に説明的にさえ感じてしまうほどのセリフの多さと、スタイリッシュなアクション。キタノ映画を初めて観る人にも『座頭市』は最もとっつきやすい一本だろう。
これに対して、『座頭市』の公開当時、ある週刊誌の連載コラムで北野武は以下のように述べていた(以下少しうろ覚えですが)。

「いつも美味いんだが不味いんだか、わからない料理ばかり作ってるって言われるから、『本当は美味い料理も作れるんだよ』ってところをきちんと伝えたかった」

映画監督を料理人に例えて答えた言葉だが、その言葉通り、本作でエンターテインメントとしての北野映画は頂点を極めたのではないかと思う。何しろ、北野武演じる座頭市は、金髪の碧眼であり、終盤ではタップダンスまで登場するのだから!
ただ、こうした北野武版『座頭市』には批判の声も少なくなかったようで、『眠狂四郎円月殺法』『真田幸村の謀略』などに出演した松方弘樹は「外国の賞狙いを意図している。タップとか金髪とかね…。だからこそ我々は『それだけが時代劇じゃない』ってことを伝えていかなきゃ」、また、『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などに出演した千葉真一は「時代にこびた時代劇は作るべきじゃない。妙な時代劇が定着してしまうのは恐ろしいこと」と批判的な声を上げていた。

時代劇はどこまで時代考証が必要か?

時代考証について、実のところ、これは非常に難しい問題だと思う。
もし、本当に時代考証を第一に考えるのであれば、江戸時代の既婚女性は引眉をしてお歯黒をせねばならないはずだ。
だが、それをリアルにしたところで現代の我々の目からすると、たとえどんなに美しさが求められる役柄であったとしても、強烈な不気味さが先に来て、ほとんどの時代劇の世界観をぶち壊しにしてしまうのではないか。

時代考証の正確さは絶対正義ではない。
時代劇研究家の春日太一氏は、著書『なぜ時代劇は滅びるのか』の中で時代劇の魅力はそのファンタジー性にあると述べている。

「時代劇は誰も経験したことのない時代が舞台であるため、観客にとって説得力のある表現にさえなっていれば――極端に言えば――何をやっても許される。とてつもなく強い剣豪がいたかもしれないし、尋常でない忍術を使う忍者がいたかもしれない。時代劇では、そうした『こうだったらいいな』という『if』を盛り込むことができる器なのだ。現代の風景に置くと嘘っぱちに思えるような人物も設定も、時代劇という現代とは異なる風景に置くことで、ロマンあふれるファンタジーへと昇華できる」

北野武の『座頭市』もまさにファンタジーだと言える。しかし、そこには偉大な映画人たちのリスペクトも確かに感じさせるのだ。
やくざの親分がピストル(リボルバー)で座頭市を撃とうとする場面があるが、おそらくこれは黒澤明の『用心棒』のオマージュではないか?
『用心棒』で黒澤明は仲代達矢にスコットランド製のマフラーを着用させ、ピストルを持たせ、時代考証よりもとにかく娯楽作であるように努めた。
また、座頭市との最後の戦いで市が逆手を順手に変えるシーンは『用心棒』の続編である『椿三十郎』のオマージュではないかと言われている。

北野武と黒澤明の交流は有名である。黒澤明が亡くなってから30年近く経つが、北野武は毎日黒澤明を拝んでいるという。以下は北野武の著書『超思考』からの引用だ。

「ウチの仏壇には、お袋だけじゃなくて、他にもいろんな人が入っている。 父親や祖母はもちろんだが、俺の浅草時代の師匠に、黒澤明監督、淀川長治さん、それから鈴木その子さんとか、俺にとって大切な人が何人か、全部で八人くらい入っている。 家族は別として、入っているといっても位牌があるわけではない。写真だったり、手紙だったり、形見だったり、とにかく俺にとってその人を偲ぶよすがとなる何かが入っている」

また、著書『全思考』にはこうも書いている。

「仏壇に線香をあげるとき、母ちゃんや父ちゃんだけでなく、黒澤さんにも声をかけている。「この世で撮りたい映画がもっとあるなら、俺のカラダを使ってください。俺に乗り移って、映画を撮っていいですから」と。「また調子のいいことばかり言ってやがる」なんて、黒澤さんは天国で苦笑してるに違いないけれど」

北野武の座頭市は何を意味するのか

話を戻そう。そもそも原作における『座頭市』にも勝新太郎の映画版とは異なる部分が多々ある。
座頭市が居合の名人なのは原作も映画も変わらないが、原作の座頭市が「柄の長い長脇差」を差しているのに対し、映画では仕込み杖となっている。また原作では市の戦闘場面は一切描かれていないが、映画版では座頭市の立ち回りのアカションが大きな見どころとなっている。

もちろん、北野武の『座頭市』には、先にも述べた金髪や碧眼など、北野武独自の要素も大きい。例えば、座頭市が障子越しに刀の突きを避ける動きは、ボクシングからの影響が見て取れる。カーテンコールのように映し出されるエンディングのタップダンスもそうだが、いずれも北野武が若い頃から慣れ親しんできたものが本作には活かされている。

さて座頭市の金髪と碧眼についてだが、個人的には「アメリカ」を指していると思っている。
北野武が2001年に制作した『BROTHER』はアメリカを舞台にしたヤクザとマフィアの攻防を描いた作品だが、その実は現代社会を舞台にした太平洋戦争の再現だった。
何しろ、登場人物の名前の多くが実際に戦争で活躍した日本軍の軍人の名前から名付けられているのである。ビートたけし演じる主人公の山本は連合艦隊司令長官山本五十六からのものだろう。
序盤、次々とマフィアを殺して勢力を拡大させた山本だが、配下に組み入れた日本人街のボス、白瀬の暴走により、巨大マフィアの逆鱗に触れてしまう。そして山本側の人間は一人一人殺されてゆくのである。

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『BROTHER』が現代を舞台にして、過去のアメリカを描いたとするならば、『座頭市』は昔の時代を舞台にして、今のアメリカを描いた作品とは言えまいか。
いわば『BROTHER』と『座頭市』は対照的な作品であり、実は兄弟作ではないのかとも個人的には思ってみたりもする。

一番の悪は誰か?

『座頭市』に対して、北野武はこうも言っていた。

「今作で誰が一番悪いかっていうと、それは座頭市なんだよ」

確かにそうかもしれない。座頭市は町を牛耳る悪人たちを片っ端から殺して町から一掃し、風のように去っていく。
本作が公開された2003年にはイラク戦争が始まっている。
文化も歴史も違う国に、アメリカは「民主主義という理想」を押し付けた。アメリカがイラクを攻撃した理由は、フセイン政権が大量破壊兵器を所有しているという疑惑と、クルド人への弾圧や独裁によって国民に圧政を敷いているというものだった。
だが、フセインを倒した結果、却ってイラク国内は混乱し、タリバンやイスラム国などの台頭を許すことにもなった。

『座頭市』は勧善懲悪のハッピーエンドではあるのだが、「座頭市が一番の悪」と考えると、座頭市が去ったあとの「平和」はいつまで続くのか?とも思ってしまう。今までより悪い連中が街を支配する未来だってあり得るだろう。

座頭市の目は見えていたのか?

さて、勝新太郎との『座頭市』シリーズとの大きな違いは北野武の演じる座頭市は「目が見えている」ということだ。
柄本明演じる口縄の頭との対峙の中で座頭市は初めてその目を開く。

「なんだてめえ、めくらじゃねぇのか」
「そうだよ」
「なんでめくらのふりなんてしてんだ?」
「めくらのほうが人の気持ちがわかるんだよ」

そう言って仕込み杖から刀を抜き、頭を斬り殺す。
だが、ラストシーンでは小石につまづき、目を開いたまま「いくら目ん玉ひん剥いても、見えねえものは見えねえんだけどなぁ」とのセリフで映画は幕を閉じる。この最後のセリフで、座頭市は目が見えているのかどうかか曖昧になり、果たして本当のところはどうなのか、議論を呼ぶことになった。

私としては座頭市は目が見えていると考えている。
映画の中で座頭市は頭を斬ったあと、そのまま扇屋へ足を向けるが、扇屋の障子を開けるなどはカメラが座頭市の視点になっていること(目が見えないなら、視点も真っ黒になるはずである)、また、扇屋の中にいる真の黒幕の老人が、座頭市に対して「お前の目が見えるのは最初から分かっていた」という点(この台詞によって、老人が実は驚くほどの観察眼を持つ人物であることが示されるのだが、もし座頭市が盲目だとしたら、このセリフの意味がなくなる)、そして最後のセリフに関しても「いくら目を開いて前を向いていても、足元の小石のように見えない(視界に入らない)ものもある」という意味に解釈することもできる。

『座頭市』について、北野武は「今までの俺の映画では封印していた、いわゆる映画らしい撮影のテクニックとかもバンバン使って、思いっきりエンターテイメントな映画を撮った。それは日頃のストレス解消みたいなもんで、俺個人としてもムチャクチャ楽しかったりするのだ」と述べている(『全思考』より)。

北野武の映画は『アウトレイジ』を境にそれまでの最低限のセリフで構成される映画から、漫才のようにセリフの応酬で魅せるスタイルの映画に変貌した。その背景にある原点はこの『座頭市』ではないかと思う。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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