『兄を持ち運べるサイズに』果たして「家族」とは何なのか?

普段、映画を観るとき、俳優名で選ぶことは少ない。たとえ好きな俳優が出ていようと、面白くない映画は面白くない。
大体が監督か脚本家、製作スタジオなど、もしくは直感で選んでいる。
しかし、こんな私を映画館へと足を運ばせる数少ない俳優の一人がオダギリジョーだ。

オダギリジョーの出ている作品であれば全て観る!というわけではないが、それでもオダギリジョーが出ていなければ、今回の『兄を持ち運べるサイズに』は観ていなかったと思う。

『兄を持ち運べるサイズに』

『兄を持ち運べるサイズに』は2025年に公開された中野量太監督、柴咲コウ主演のドラマ映画。オダギリジョーは準主演といったところか。
しかし、なんと言ってもこのタイトルの切れ味がたまらない。原作はエッセイストの村井理子が自身の兄の後始末について書いた『兄の終い』だ。

 

実際のエッセイにも書かれている『兄を持ち運べるサイズに』。
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実際のエッセイにも書かれている『兄を持ち運べるサイズに』。名タイトルだと思う

中野量太監督曰く、原作のままのタイトルだと少し堅い作品と勘違いされそうだったので、本文と、帯にあった「兄を持ち運べるサイズに」を映画のタイトルにしたという。

兄のあとしまつ

長きにわたってほとんど交流のない、兄の突然の死。兄の遺体を見つけたのは、ともに暮らしていた彼の息子の良一だという。
作家の村井理子は、兄が住んでいた宮城県の多賀城市まで「兄のあとしまつ」へ向かう(原作では叔母も同行しているが、映画版では理子だけで多賀城市まで向かったことになっている)。
大怪獣のあとしまつ』では、怪獣の後始末をつける側だったオダギリジョーが、今作では兄として後始末される側になっている。

亡くなった家族の死をきっかけに、その人の知られざる一面を再発見していく。
こうした作品は実は珍しいものではない。有名なところで行くと、クリント・イーストウッド監督の『マディソン郡の橋』はこのフォーマットそのままだ。

8割が実話

 

ダメ兄を演じたオダギリジョー
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ダメ兄を演じたオダギリジョー

『兄を持ち運べるサイズに』では、描かれていることの8割が実話だという。
母の末期がんが発覚すると、母を放って逃げ出し、葬儀の日まで帰ってこなかった兄。そしてあろうことか、喪主を務めた理子に「いくら稼いだ?」と訊き、金をせびりさえした。
それ以来、理子は兄を兄とさえ思わなくなった。その兄の突然の訃報。
それによって、理子は「家族」と改めて向き合うことになる。

 

理子と兄の元妻の加奈子と娘の満里奈
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理子と兄の元妻の加奈子と娘の満里奈

柴咲コウは、若いときは生意気で気の強い役柄が多かった。美人なのは言うまでもないが、いかにも気の強そうな目つきがその役柄を縛ってもいたのだろう。
だが、今作は家庭を愛する平凡な主婦だ(一方で人気エッセイストではあるが)。化粧っ気も薄く、それまでの柴咲コウのイメージを軽く覆される。

解説も何も書けやしない!

さて、問題はここからだ。

個人的に映画のレビューを書く時はまず作品内の情報に目を配らせる。すると「ん?」と思うポイントが見つかる。例えば『TOKYOタクシー』では、二人の旅の始まりは葛飾の帝釈天からだ。『TOKYOタクシー』の監督は山田洋次、そして主演が倍賞千恵子ということから、帝釈天が出発点なのは偶然ではないことがわかる(この組み合わせと帝釈天と言えば『男はつらいよ』シリーズだ)。

だが、『兄を持ち運べるサイズに』はそういう引っかかりが見つからない。どうしよう、これでは解説も何も書けやしない!

舞台柄、東日本大震災の痕跡なども映し出されるのだが、それが特別な意味を持つのか、それとも多賀城市だからなのかもわからない。第一、東北に行ったことすらない。

 

・・・困った。

亡くなった祖父の話

だが、その代わりに映画を観ている間、ずっと亡くなった祖父のことが頭をよぎっていた。
亡くなってからもう10年以上が経つ。ずっと農業で生計を立てていた。中学校すら卒業したのかも怪しい。組織の中で勤め人などとても務まらないような人だった。
理子の兄が亀をペットに、ギターを担いで港で自転車を漕いでいるシーンがあるが、祖父もよく海でウニや貝などを採ってきていた。磯にある亀の手は祖父の死とともに久しく食べてはいないが、間違いなく、私が幼い頃から慣れ親しんだ食べ物の一つだ(ほぼ「えっ、これ食べれるの!?」と人には驚かれるのだが)。そういえば、いつかは亀を何匹か採ってきたこともあったな・・・。

 

亀の手
これが「亀の手」。磯の岩場によくいる

いつも私や姉、従兄弟などの孫の顔を見ると目を細めてニコニコしていた祖父。だからこそ、母から「じいちゃんは昔はとても厳しくて怖かった」と聞かされても全くピンと来なかったものだ。
ただ、どこまでも我が道を行く祖父の生き方はそんな母の言葉をどこか裏付けるものでもあったと思う。晩年は軽い認知症もあり、何かとトラブルの種でもあった。
だが、ある日体調不良の診察で、ある事実が明らかになった。兄のような突然死ではなかったものの、祖父は末期の大腸がんだった。癌ということが分かって二週間程度で亡くなった。こう書くとピンピンコロリのように思えるかもしれないが、そこは祖父だ。そのわずかな期間でもエピソードには事欠かない。

まず、がん患者であるため、病院に入院することになった。最初は私も見舞いに行っていたのだが、わずか三日目。なんと祖父は点滴を自分で抜いてしまった。病院側もこちらは手に負えないと強制退院。家では何かとトラブルメーカーだった祖父が入院してくれて、ひと安心していたのだが、それもわずか三日。ナポレオンの三日天下を地で行くような話だ。

もう(あらゆる意味で)治療も難しいとのことで、自宅での緩和ケアに切り替えた。
このサイトでも何度か触れているが、私は最初の会社を辞めて、フリーターになった。しかし、働きながら職業訓練校に通ったものの、中々未経験で目指す職には就けなかった。業を煮やした母親に実家に連れ戻された。祖父の癌が見つかったのはその直後だった。
理子の兄と祖父は「傍若無人」なところがとてもそっくりだった。何かを集めたがるのも同じだ。

ゴミ

兄を火葬したあと、理子と兄の元妻である加奈子、そして兄と加奈子の娘である満里奈は、兄の住んでいたアパートの片付けを行うが、そこは大量のモノとゴミと悪臭にまみれた部屋だった。

 

大量のモノとゴミと悪臭にまみれた兄のアパート
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大量のモノとゴミと悪臭にまみれた兄の住んでいた部屋

ワゴン車の後部座席いっぱいのゴミを積んでへ向かう理子と加奈子。
ああ、うちもそうだったと思う。家の周りや物置にあった、祖父が長年にわたって海から拾ってきたゴミのようなものは、祖父の死とともに本当のゴミになった。その量トラック4台分。ゴミ焼却施設まで2台の車で2往復はした記憶がある。

『兄を持ち運べるサイズに』は6割が原作通り、2割が実話、残りの2割が中野監督のオリジナルだという。
原作はエッセイだからか、特段の派手さはないが、映画だと時折、理子の前に兄の幻影が現れている。『CINEMORE』から中野監督のインタビューを抜粋しよう。

「原作はそこまで派手な話ではないんです。だから最初は、どのようにしたら成立するかなと思っていました。兄が亡くなっているということは、要するに兄はもう出てこない。では一体これをどうすればいいのか。主人公である村井さんは作家なので、後でエッセイとして書くつもりで写真をたくさん撮って、当時のことを記録していたそうなんです。それを聞いて、「あ、なるほど!」と。主人公が作家ということは、作家の頭に浮かんだ兄が表に出てくるという方法が可能になる。それはとても映像的だしエンタメ性も強い。これは勝算があるんじゃないかと」

思い出の兄とは違い、こちらの兄はどこか憎めない温かさを感じさせる。
市役所の人から聞く、多賀城市での兄の姿、加奈子から聞く、夫としての兄の姿。理子は兄の後始末をしていく中で、改めて兄を再発見していく。だから、理子の前に現れる兄はどこか優しく、どこか憎めない。

 

理子の前に現れる兄
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映画では、理子の頭の中に浮かぶ兄が登場する

また、「お父さんはなぜ死んだの?」と父の死に対して思い悩む、良一に対して、兄の死は良一のせいではないと理子がはっきりと伝える場面も映画のオリジナル。原作を読むと、良一が理子にそう問いかけたのは事実ではあるが、その時は咄嗟の質問にその真意を図りきれなかったという。

「家族は支えであり、呪縛ではない」

本作は理子の「兄の後始末」と同時に彼女が『兄を持ち運べるサイズに』というエッセイを書き上げるまでの物語でもある。

その本の序文には、次の一文がある。

「家族は支えであり、呪縛ではない」

原作にも、次の言葉がある。

「今でも兄を許せない気持ちはある。そして、そんな気持ちを抱いているのは私だけではないと思う。兄はさまざまな問題を引き起こし、多くの人に辛い思いをさせ、突然去って行った。  
そんな兄の生き方に怒りは感じるものの、この世でたった一人であっても、兄を、その人生を、全面的に許し、肯定する人がいたのなら、兄の生涯は幸せなものだったと考えていいのではないか。だから、そのたった一人の誰かに私がなろうと思う。」

果たして、「家族」とは何なのか。
それぞれの人にそれぞれの家族がある。
映画を一本観たところで、その答えが簡単に降ってくるわけでもない。だが、『兄を持ち運べるサイズに』は鑑賞しながら、どうしようもなく家族を想ってしまう、そんな作品でもある。

さて最後に私の家族の話を。今でも家族、親戚が集まれば、必ず祖父の話になる。憎まれっ子世に憚ると言うが、こうしてみると少しくらい憎まれるくらいがちょうどいいのかもしれない。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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