
ホラー映画の代表的なアイコン
『13日の金曜日』と言えば、なんと言ってもジェイソンだ。年に何度か13日が金曜日になる月はあるが、その日はSNSのタイムラインにもジェイソンは多く登場している。
今でもそうかはわからないが、ジェイソン・ボーヒースというキャラクターは間違いなくホラー映画の代表的なアイコンだった。個人的にはなんていうか、わかりやすいホッケーマスクと、何をされても決して死なないという不死身設定で「キャラ立ち」しやすい殺人鬼だったのではないかと思っている。
もちろん、それを言うならジェイソン以前にもマスクを付けたキャラクターは存在していた。それが『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスであったり、『ハロウィン』のブギーマンであったりしたのだろう。
ちなみに『13日の金曜日』は『ハロウィン』の成功を受けて企画されたいわゆる「二番煎じ」と呼んでいい作品の一つであった。そのために公開当時の批評家たちの反応は芳しくないものが大勢というより、むしろ最低なものだったと言っていいだろう。
最も卑劣な生き物の一人
ロサンゼルス・タイムズのリンダ・グロスは、この映画を「馬鹿げた、退屈な、若者向けのホラー映画」と評し、バラエティ誌はこの映画を「最悪の意味での低予算で、技術的な欠陥を補うだけの才能や知性がない。 『13日の金曜日』にはタイトル以外にエクスプロイテーションできるものがない」と評した。バーリントン・フリー・プレス紙のマイク・ヒューズは本作を「質を除いて(『ハロウィン』の)すべてをコピーしている」として、「映画の最低点は終盤で、悪役の真の悲しみと狂気を搾取するところだ。その頃には、単純に面白くなくなっている」と述べている。
中でも映画評論家のジーン・シスケルは、監督を務めたショーン・S・カニンガムを「映画業界に巣食った最も卑劣な生き物の一人」と呼び、配給会社であるパラマウント・ピクチャーズを所有していたガルフ・アンド・ウエスタンの取締役会長チャールズ・ブルードーンの住所と悪役のパメラ・ボーヒーズを演じたベッツィ・パーマーの故郷の住所を掲載し、この映画への軽蔑を表明するよう促した。さらに人々に映画への興味を失わせるために批評の中で映画の意外な結末を明かしたりもした(これらの行為は『13日の金曜日』の制作サイドに訴えられなかったのだろうか?)。
『13日の金曜日』の革新性と魅力
第一作目の『13日の金曜日』にはジェイソンも全くと言っていいほど登場しない(ちなみに2009年に公開されたリブート版ではこの一作目の内容をオープニングクレジットまでに終わらせ、内容としては実質『パート3』のリブートもなっている)。
さらに言えば、『ハロウィン』では第一作目からマイケル・マイヤーズはブギーマンとしてマスクを被っているが、『13日の金曜日』シリーズでジェイソンがホッケーマスクを被るのは三作目になってからだ。
批評家には酷評され、ジェイソンというホラーアイコンも登場しない『13日の金曜日』。
しかし、本当にそれだけなら、続編など作られようもない。
今回は『13日の金曜日』の革新性と魅力について改めて掘り起こしていきたいと思う。
個人的な前置き
そして、最初にちょっと個人的な前置きを。
普段、こうした映画解説の文章を書くのは、約一週間、長いものだと二週間かかることもザラだ。数年越しで完成させるものもあれば、未だに書きかけで眠ったままのものもある。展開に行き詰まっているのもそうだが、書くのに時間がかかる最も大きな理由は、情報の裏取りに時間がかかるからだ。
映画のちょっとした疑問点は誰かの考察でなく、できれば製作者の公的な発言から拾い上げた正しい解釈を読んでくれている人に届けたいと思う。
もちろん自分なりに「こういう意味ではないか?」と思うことはある。解釈は自由だ。しかし「間違った解釈」があるのも事実。間違った情報や先入観はなるべく減らして、本当に価値あるものを読んでくれている人へ届けていきたい(もちろん公式見解が不明なところは「個人的には〜ではないかと思う」のような書き方を心がけている)。
だが、今回はあえてそのルールを破ってみたいと思う。今の段階では、まだ『13日の金曜日』についてはほぼ調べていない。
これはチャンスだ。
今回はまず、私の個人的な考えを自由に述べた上で、公式な見解を調査し、作品の考察を解説を進めるという流れにしたい(これ書いてる今現在は『ペット・セメタリー』の解説をアップしたばかりで、まだ脳が疲れているのです・・・)。
『13日の金曜日』
あ、まずはいつもの作品の概要紹介から。
『13日の金曜日』は1981年に公開された、主演のホラー映画。
クリスタル・レイクと呼ばれるキャンプ地に集まった若者たちが、ある殺人鬼に次々と惨殺されていく物語だ。
本作の際立った特徴の一つに、残酷表現の描写がまずあるだろう。『ハロウィン』や『悪魔のいけにえ』が直接的な描写を避けていたのに対して、『13日の金曜日』はかなり直接的だ。犠牲者の頭は斧で割られ、喉を矢が貫通する。これは当時としては大きなショックを観客に与えることができただろう(特殊メイクは『ゾンビ』の残酷表現を手がけたトム・サヴィーニが務めている)。
『13日の金曜日』はクリスタル・レイクに集った若者たちと同世代の観客に熱狂的に支持されたという。ロックンロールやヒップホップもそうであったように、まず最初に新しい刺激に熱狂するのは若者たちだ。その姿に大人が眉をしかめるなど、はるか昔から延々と繰り返されてきたことではないか。
個人的には観客は『13日の金曜日』を映画という感覚よりも一種のホラーアトラクションとして映画館へ足を運んだのではないかと思うのだ。
もう一つは親世代への反抗だ。今回の悪役はジェイソンの母であるパメラ・ボーヒーズだが、親の抑圧とそれに打ち克つ子供世代という解釈も可能ではないかと思う。
スラッシャー映画
果たして、これらの考えが合っているかどうか、正解を見ていこう。まず、残酷表現についてだが、これに関しては『13日の金曜日』が最初というわけでもない。前述の『ゾンビ』でも、人が生きながら臓物を食われていく様を映し出している。
しかしながら、スラッシャー映画としてそういったゴア表現を行ったという意味では先駆的な作品だったのではないか。
スラッシャー映画とは、ホラー映画のサブジャンルの一つであり、サイコパス的な要素を持った殺人鬼が大量殺人を行っていく映画だ。
代表的なものに前述の『悪魔のいけにえ』や『ハロウィン』などが挙げられる。
1970年代のホラー映画の代表作である『ゾンビ』や『エクソシスト』、『キャリー』などはたとえば悪魔憑きや超能力など、オカルトやSF的ないわゆる「非日常的」なホラーであった(余談だが、『13日の金曜日』のラストシーンは『キャリー』のラストシーンに影響を受けている)。
しかしながら、『ハロウィン』のマイケル・マイヤーズ、『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスはともにれっきとした人間であり、いわば都市伝説的な日常の延長線上に存在するかもしれない恐怖を描いている。
もっとも、そういった意味では『13日の金曜日』のパメラ・ボーヒーズは最も人間らしい人間と言える。外見は普通のオバチャンであり、ただ息子を失った悲しみと憎しみで狂気に陥っているだけの人間だ。
『13日の金曜日』は特に若い世代からの支持を集めたホラー映画だが、自分たちと同じ若者がどこにでもいるような人間に残虐に殺されていくという、ある意味ドキュメントのような真実味のある設定が余計に恐怖を駆り立てたのではないかとも想像できる。
1980年代にはこうしたスラッシャー映画の躍進が起きた。その裏にはより特殊技術の発達により、よりリアルな残酷表現が可能になったことと、ビデオの普及が挙げられる。ビデオであれば、残酷シーンがカットされることもなく、何度も繰り返し視聴できる。こうして映画の二次ビジネスがテレビ放送からレンタルビデオに移行したのだ。
セックスやエロス
また改めて作品を観返して感じるのはセックスやエロスを感じさせる場面の多さだ。これもなぜ批評家が本作を批判し、若者に支持されたかの一つの理由になるだろう。下世話な作品はコンビニのゴシップ誌と似たようなものだ。批評家からは概して蔑まれるが、大衆の欲求にはこたえてくれる。
もしかしたら、キャンプ場へ来るようないわゆる「陽キャ」のグループが次々に殺されることに溜飲を下ろした陰キャの人も少なくなかったかもしれない。
ただ、これらの考察が当てはまるのは『13日の金曜日』だけであり、『13日の金曜日 PART2』以降は殺人鬼がジェイソンとなるので、以降の『13日の金曜日』シリーズの魅力に関しては、また改めて考えてみたいと思う。ジェイソンが主人公になってからの『13日の金曜日』シリーズは一種のアンチヒーロー映画であり、モンスター映画に変貌してしまった。
ジェイソンは犠牲者だった
『13日の金曜日』で脚本を務めたヴィクター・ミラーは、『13日の金曜日 PART2』で復活したジェイソンについて、「ジェイソンは最初から死んでいた。彼は悪役ではなく、犠牲者だったんだ」と述べている。また、1993年に公開された『13日の金曜日 ジェイソンの命日』で監督を務めたアダム・マーカスはショーン・S・カニンガムについて「ショーンはホッケーマスクもジェイソンも嫌いなんだ」と語っている。