『戦場のピアニスト』シュピルマンの人生にポランスキーは何を見たのか

※以下の考察・解説には映画の結末のネタバレが含まれています


さて、ロマン・ポランスキーについて、どこから語ったらいいものだろうか。犯罪史に残る、凄惨な殺人事件の被害者としてだろうか、それとも幼女をレイプした罪でアメリカに戻ることを許されない逃亡者としてだろうか、それとも、間一髪でホロコーストから生き延びた、ナチス・ドイツの被害者としてだろうか。
ひとまず今回は、ナチス・ドイツの被害者として始めよう。

ロマン・ポランスキーの戦争体験

ロマン・ポランスキーは、1933年、フランスのパリに生まれた。そして第2次世界大戦が目前に迫った3歳のときに家族ぐるみでポーランドのクラクフに引っ越した。しかし、ポーランドは1939年9月にナチス・ドイツによるポーランド侵攻によってナチスの支配下となってしまう。ポランスキー一家はクラクフ・ゲットーに強制的に移住させられ、さらに1943年2月には妊娠4ヶ月だった母ベラと祖母マリア・リーブリングはクラクフ近郊のアウシュビッツ収容所へ送られ、到着後すぐにガス室で殺害。また父のモイシェスはマウトハウゼン強制収容所へ移送された。
ポランスキーは父が連行される様子を見ていたと言うが、父に近寄ろうとしてたところを父に止められたため、ドイツ兵に見つからずに済み、強制収容所行きを免れている。
父親はポランスキーのためにゲットーの有刺鉄線を切って穴を作っており、その穴からゲットー外への脱出に成功するが、その後も「ユダヤ人狩り」から逃れるために、終戦までポーランドを転々とする生活を余儀なくされる。
ちなみに、父親とは終戦後に再会。父はナチスにより採石場で強制労働をさせられていた。今のポランスキーという姓は父が戦後再婚した継母の姓である。

ウワディスワフ・シュピルマンが著した回想録

ポランスキーの戦争体験は後の彼の多くの作品へ影響を及ぼした。しかし、ポランスキー自身は決して自らの体験を映画作品にしようとはしなかった。
スティーヴン・スピルバーグがホロコーストを描いた『シンドラーのリスト』も元々はポランスキーに監督のオファーがあったのだが、物語の舞台がかつて自分か過ごしたゲットーであったために断っている。
そんなポランスキーだが、自身が手がけた『ナインスゲート』がパリでプレミア上映された時に、友人から『戦場のピアニスト』の原作となる本を渡された。それはピアニストで、ユダヤ人のウワディスワフ・シュピルマンが著した回想録だった。ポランスキーはその内容を「適度な距離感だった」と表現している。
自分の体験したことと同じ事が書かれていながらも、決して自分自身ではない。
こうして『ナインスゲート』の次の作品にポランスキーは『戦場のピアニスト』を製作することを決める。

『戦場のピアニスト』

『戦場のピアニスト』は2002年に公開された、ロマン・ポランスキー監督、エイドリアン・プロディ主演の伝記映画だ。ポーランドのピアニストであるウワディスワフ・シュピルマンの著作が元になっている。
物語は1939年、シュピルマンが放送局でピアノを弾く場面から始まる。ここでシュピルマンが奏でているのはショパンの『夜想曲第20番 嬰ハ短調「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」』。ショパンはポーランドを代表する作曲家だが、この曲が書かれたのは1830年と言われているが、その年にショパンはポーランドを発ちウィーンへと向かう。だが、向かったウィーンでは11月蜂起が起き、ショパンは思い描いていた活躍ができないままで終わってしまう。この『夜想曲第20番』は住処を終われ、ゲットーへ向かうことになるシュピルマンの運命を示唆しているというのは大袈裟だろうか。ピアノを弾いている途中、放送局は砲撃を受ける。ナチス・ドイツによるポーランド侵攻が始まったのだ。

ナチス・ドイツのポーランド侵攻

もともとナチス・ドイツとポーランドは1934年1月26日にドイツ・ポーランド不可侵条約を結んでいた。この条約はポーランドの指導者であったユゼフ・ピウスツキはアドルフ・ヒトラーの間で交わされたものであったが、1938年にピウスツキが死去すると、ドイツは方向を大きく転換する。
1938年10月、ナチス・ドイツの外相であるヨアヒム・フォン・リッベントロップは、 第一次世界大戦後に自由都市となっていたダンツィヒの返還  、ポーランド回廊への陸上交通路の建設 を条件に、ドイツ・ポーランド不可侵条約を継続することを提案した。しかし、イギリスとフランスの後ろ盾もあり、ポーランドはドイツの提案を拒否。そして1939年4月28日、ヒトラーはドイツ・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄し、ついに1939年9月1日にドイツはポーランドへ侵攻を開始したのだ。

また、ドイツはこのポーランド侵攻に際して、ソ連の介入を防ぐために、事前に独ソ不可侵条約を締結。一方のイギリスとフランスは9月3日にナチス・ドイツに対して宣戦布告を行った。この時シュピルマンの家族はイギリスとフランスの宣戦布告によってナチスのポーランド侵攻はそう長くはないと予想していたが、この二国は戦争の激化を恐れ、軍事行動に出ることはなかった。
ドイツがポーランドを侵攻した理由は、ポーランド国内でドイツ系住民が虐待されているのでその保護という名目と、ヴェルサイユ条約で失った領土の再獲得だった。

それぞれのホロコースト

しかし、実際に行ったのは、ポーランド国内のユダヤ人たちへの虐殺だった。当初はユダヤ人に対しても比較的穏健であったナチスだが、徐々にその迫害は強くなるばかりだった。ユダヤ人への迫害は店への立ち入りが制限されることに始まった。ポランスキーも6歳頃、数週間だけ小学校に通ったが、ユダヤ人の子どもは通学が禁じられ突然方向となった。また、劇中ではユダヤ人と識別できるように青いダビデの星が刻印された白い腕章を着用することが義務付けられるが、これもポランスキーの体験したことだ。続いてユダヤ人は居住区が強制的に決められるようになる。シュピルマン一家もゲットーに強制移住させられ、財産も制限される。ゲットー内ではチフスが蔓延し、道端には死体が転がっている。最終的にゲットーは3.36km2しかない面積の中に44万5000人もの人口が暮らす過密地域となる。後述のラインハルト作戦までに約8万3000人のユダヤ人が伝染病や飢餓によって命を落としたという。

やがて、労働力となるものとそうでないものは選別され、家畜用列車で絶滅収容所へと連れていかれる(ラインハルト作戦)。戦後の調査によると、延べ30万人がゲットーから絶滅収容所へ移送されたという。シュピルマンは列車に乗りこむ寸前で、ユダヤ系でありながらナチスの側についた友人から、家族と引き剥がされ、この逃げ去るように促される。ここで友人は目立たぬように歩いていけとシュピルマンに助言する。実際にはシュピルマンは走って逃げ去っており、歩いていけと助言されたのはポランスキーの実体験に基づいている。つまり『戦場のピアニスト』のシュピルマンは、史実のシュピルマンとポランスキー自身を融合させた人物と言っていいだろう。家族の中で唯一収容所送りを免れたシュピルマンはゲットーに戻り、強制労働に従事する。そこでは秘密裏に武装蜂起が計画されており、シュピルマンも武器の調達などの協力を行う。

ちなみにシュピルマンを演じたエイドリアン・ブロディだが、ブロディの父はシュピルマンと同じポーランド系ユダヤ人でホロコーストの生き残りであり、また母(写真家のシルヴィア・プラヒー)は少女時代の1958件にハンガリー動乱によって、アメリカに逃れてきた難民だった。

ワルシャワ・ゲットー蜂起

シュピルマンの暮らすゲットー内のユダヤ人たちも日常的に拷問や虐殺が行われており、シュピルマンはゲットーからの脱出を試みる。
シュピルマンはゲットーの壁の修理を行うときに、数年ぶりにゲットーの外の光景を見る。ゲットー内が寒色系で彩度の低い映像で表現されているのに対し、外の人々の暮らす街は温かく、鮮やかな色で彩られている。
2014年に公開された『顔のないヒトラーたち』では戦後、多くのドイツ国民が戦時中にアウシュヴィッツで何が起きたのか知らなかったという事実が語られる。にわかには信じがたいが、しかしこのような二つの世界の断絶をみると、ホロコーストを知らなかったという言葉も納得できる。市井のゲットーに築かれた壁の向こうなど、見ようにも見えないのだ。
実際、戦後20年近く1963年に開かれた「フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判まで、ドイツ人がホロコーストについて広く知ることはなかった。

シュピルマンは知り合いの歌手の協力を得て、ゲットーから抜け出す。いくつかの隠れ家を捻転とするが、そのうちの一つの部屋はゲットーに面しており、シュピルマンはそこでワルシャワ・ゲットー蜂起を目撃する。かつての仲間たちの勇敢さ、そしてなすすべなく殺される無残さ。
シュピルマンは、自らも戦うべきではなかったのかと自責の念にかられる。

「裏切り者」ポランスキー

ここでは、ポランスキーのもう一つの面が浮かんでくる。それは戦後の社会主義下のポーランドを抜け出し、アメリカへ渡ったという負い目だ。第二次世界大戦後、ポーランドはソ連の傀儡となり、社会主義国となった。ポランスキーは1962年に『水の中のナイフ』で長編映画監督としてデビューする。『水の中のナイフ』は欧米諸国では絶賛されるものの、一党独裁体制を敷いていたポーランドでは黙殺された。ポランスキーは早々に祖国に見切りをつけ、欧米諸国へ脱出した。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を観ると、ハリウッドにおけるポランスキーの人気がどれだけ凄かったか分かるだろう。だが、ポランスキーの中ではずっと祖国を捨てた罪悪感が拭えなかった。
映画監督の押井守は『アヴァロン』の撮影をポーランドで行った際に、現地の映画人にポランスキーをどう思うか尋ねたという。すると、皆一様にポランスキーには否定的な評価であったと述べている。逆にポーランドで賞賛されていたのは、『灰とダイヤモンド』で知られるアンジェイ・ワイダだった。ワイダはポーランドに留まり続け、映画を通してポーランドの真のアイデンティティを問い続けた。ポーランドでは「ワイダの映画に出るのは名誉なこと」と考えられていたという。そんな彼らからすると、ポランスキーは早々にポーランドから抜け出した「裏切り者」なのだ。

シュピルマンがゲットー蜂起を目の当たりにするこの場面は、そんなポランスキーの傷の疼きを感じるようなシーンでもある。
だが、シュピルマンのその隠れ家も、隣人にユダヤ人であることがバレて逃亡せざるを得なくなる。
シュピルマンは支援者の手助けの元、新しい住居に匿われる。しかし物資を届ける役割を担っていた支援者の来訪はだんだんと途切れがちになる。シュピルマンは栄養不足から内臓疾患となり、生死の境を彷徨う。その支援者は有名人であったシュピルマンへの寄付を募りつつ、その金を懐に入れていたのだ。
その隠れ家もワルシャワ蜂起とその鎮圧の影響で爆撃されてしまう。追い詰められたシュピルマンが逃げ込んだのは、廃墟と化したゲットーだった。

エイドリアン・ブロディは今作のために、住んでいたアパートや車、携帯電話などすべてを手放して撮影に臨んだ。それは何もかもを無くしたシュピルマンの境遇を実感するためだった。
また、同時にダイエットにも取り組んだ。もともと痩身のブロディだが、6週間で13.5キロもの減量に成功、185センチの身長に対して、59キロしかなかったという。ダイエットは見た目だけでなく、内面的な役作りにも役に立ったとブロディは言う。

「それは実際に味わうことがなければ演技できないものだった。自分の人生で、喪失や哀しみは経験したことがあったけれど、空腹によってもたらされる死にものぐるいの感情は知らなかった」

『バラード第1番 ト短調 作品23』

飢えに苦しむシュピルマンの前に現れたのがドイツ将校のヴィルム・ホーゼンフェルトだった。ホーゼンフェルトはシュピルマンが元々ピアニストであったことを知ると、ピアノを弾かせ、食料などを援助するようになる。
実はこの作品、『戦場のピアニスト』というタイトルながら、実際にピアノを弾いている場面は数えるほどしかない。その中でも最も印象的なのがこの場面だろう。
シュピルマンは恐る恐る鍵盤に触れる。指の動きもぎこちない。今の時間は死の前の単なる戯れだろうと思っているからだ。だが、やがてそのピアノは死の恐怖を超越していく。

ここで演奏された曲はショパンの『バラード第1番 ト短調 作品23』。史実ではこの時シュピルマンが奏でたのは『夜想曲第20番』。実は『バラード第1番 ト短調 作品23』はポーランドの詩人、アダム・ミツキェヴィチの愛国的な詩に啓発されたとも言われている。この変更にもまたポランスキーのポーランドに対する恋慕が現れているように思える。ちなみにミツキェヴィチの代表作である叙事詩『パン・タデウシュ』は1998年に前述のアンジェイ・ワイダの手によって映画化されている。

ヴィルム・ホーゼンフェルト

話を『戦場のピアニスト』に戻そう。
ホーゼンフェルトがシュピルマンを助けたのは、気まぐれではない。
ホーゼンフェルトは元々は教師であり、また敬虔なカトリック教徒でもあった。その後、愛国心から第一次世界大戦に参加、大戦後は突撃隊としてナチスにも参加した。ホーゼンフェルトはナチスの中で頭角を現していくが、一方でナチスのユダヤ人への迫害については批判的だった。シンドラーがそうであったように、ホーゼンフェルトも自身が運営する学校組織の職員にユダヤ人を雇用し、彼らをナチスから匿っていた。ホーゼンフェルトは1952年にソ連の捕虜収容所で亡くなっている。度重なる拷問によって精神に変調をきたし、死因は脳卒中だったという。
戦後、シュピルマンはポーランドの政治家に働きかけ、ホーゼンフェルトの釈放を求めたが、その願いが叶うことはなかった。しかし、ホーゼンフェルトの遺族とはその後に家族ぐるみで親交を続けたという。
シュピルマンも脳溢血によって2000年にこの世を去る。
そして2011年12月4日、ホーゼンフェルトがシュピルマンと出会った場所には記念銘板が設置された。

逃亡者の人生

ホーゼンフェルトはもうじきソ連軍が迫ってくることを語り、ドイツ軍はゲットーから撤退すると告げる。
しばらくしたのちにゲットーにはポーランド軍が現れ、人々は解放される。シュピルマンも隠れ家から出てくるが、その時着用していたのがホーゼンフェルトから贈られたドイツ軍のコートだったためにポーランド軍に誤射されてしまう。

「撃たないでくれ!ポーランド人だ!」その叫びは居場所を失くした祖国へのポランスキー自身の叫びではなかろうか。

ポーランドからハリウッドに渡ったポランスキーは、1977年にジャック・ニコルソンの家で13歳の少女に性的暴行をしたとして有罪判決を受け、翌1978年にフランスに亡命している(後にポランスキーはこの1件について、「これは冤罪であり、少女とその母親による恐喝の対象になっていた」と主張している。)。アメリカに再度入国すれば身柄を拘束される恐れがある。だから『戦場のピアニスト』がアカデミー賞を獲得したときもポランスキーは、授賞式に出席することができなかった。

第二次世界大戦が終わってもポランスキーは逃亡者であり続けたのだ。

作品情報

『戦場のピアニスト』
公開年:2002年
上映時間:150分

スタッフ

監督
ロマン・ポランスキー
脚本
ロナルド・ハーウッド
ロマン・ポランスキー
原作
ウワディスワフ・シュピルマン
製作
ロマン・ポランスキー
ロベール・ベンムッサ
アラン・サルド
製作総指揮
ティモシー・バーリル
ルー・ライウィン
ヘニング・モルフェンター

キャスト

エイドリアン・ブロディ
トーマス・クレッチマン
エミリア・フォックス
ミハウ・ジェブロフスキー
エド・ストッパード
フランク・フィンレー
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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
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