
批判を許されない名作映画
以前、SNSに「『ショーシャンクの空に』があまり好きではない」と書いたら少しバズってしまった。
大意としては、無実の罪で投獄されたアンディが脱獄して本物の犯罪者になるのが納得できない。例え時間がかかろうと、自らの冤罪をまっとうに晴らしていくのが筋ではないか?というもの。
投稿内容に関しては、フォロワー内外から多くの賛否をいただいた。上記のように、なぜ好きではないのかの理由も書いたのだが、細かい認識の違いなどの指摘があったり、物語の解釈という意味でも、さまざまな見方を教えてもらって非常に興味深かった。
中でも驚いたのは、「あまりに名作だと言われすぎていて、今までに人前では(あまり好きではないと)言えなかった」という声をいただいたことだ。
批判を許されないような、そんな名作映画って他にある?
『タイタニック』ですら、公開当時は泣ける派と泣けない派に分かれて賛否があったのを覚えている。
いずれにしても、『ショーシャンクの空に』に関してちょっとした議論を巻き起こしてしまったのは事実だ。また、私も10年以上前に一度観たきりなのに、ここが嫌いだ、ここが納得できないと偉そうに発言してしまった負い目もある。
ここは責任を取ってもう一度『ショーシャンクの空に』を観直してみようではないか。
『ショーシャンクの空に』
『ショーシャンクの空に』は1994年に公開された、フランク・ダラボン監督、ティム・ロビンス主演のドラマ映画。原作はスティーヴン・キングの中編小説である『刑務所のリタ・ヘイワース』。
小説の原題は『Rita Hayworth and Shawshank Redemption』なので、映画の原題『The Shawshank Redemption』は小説のタイトル下半分を使用したものだろう。この改題について、フランク・ダラボンは「リタ・ヘイワースの自伝と思われる恐れがあった」と語っている。実際にリタ・ヘイワース役を熱望してオーディションに現れた人もいたそうだ。
この作品は無実の罪で刑務所に投獄された銀行員のアンディという男が主人公だ。彼の刑務所内での暮らしが、レッドという先輩受刑者の視点から語られる形で物語は進行していく。
フランク・ダラボンとスティーヴン・キング
フランク・ダラボンにとっては、本作が初の長編監督作となる。もともと学生時代にスティーヴン・キングの小説『312号室の女』を映画化したことがあり、その際にキングの知遇は得ていたという(キングは学生や映画監督志望者を対象に自身の短編小説の映画化権を1ドルで与える取り組みを行っており、『312号室の女』もその一つだという)。
「私が書いた短編小説(長編ではない。それはあまりにも馬鹿げている)を映画化する権利を映画製作者である学生に与えるんだ。その際には、出来上がった映画を許可なく商業的に公開しないことを約束する契約書にサインしてもらい、完成した作品のビデオテープを送ってもらう。この1回だけの権利に対して私は1ドルを要求する」
ダラボンは『刑務所のリタ・ヘイワース』の映画化権を1987年の時点で取得していたという。そして脚本が完成するとすぐにキャッスル・ロックへ持っていった。
キャッスル・ロックといえば、スティーヴン・キングが自身の小説にしばしば出現させる架空の町だが、ここでいうキャッスル・ロックとは、映画監督のロブ・ライナーが設立した映画製作会社キャッスル・ロック・エンターテインメントのことだ。同じくスティーヴン・キングの小説を映画化した『スタンド・バイ・ミー』がヒットしたロブ・ライナーは、敬意を表して自身の製作会社に『スタンド・バイ・ミー』の舞台であるキャッスル・ロックの名をつけた。
「調達屋」レッド
『ショーシャンクの空に』は夜の場面から始まる。車の中で緊張した面持ちの男が映っている。その手には銃と酒。
そのまま場面は裁判の場面に映る。男の名はアンディ・デュフレーン。妻とその浮気相手を殺した罪で尋問が行われている。
アンディは尋問にも感情的にならず、淡々と答えていく(小説ではレッドからこの冷静さも陪審員の心証を悪くしたのだろうと述べられている)。
そしてアンディは終身刑を受け、1947年、ショーシャンクの刑務所に輸送される。その様子を仲間と共に眺めている黒人の男が刑務所内での「調達屋」レッドだ。
キングの小説ではアイルランド系の白人となっていたが、映画では黒人のモーガン・フリーマンが演じている。そもそも原作での「レッド」の由来は髪が赤毛ということに由来するが、映画版ではアンディに由来を訊かれて、彼をからかうために「アイルランド系だから」と冗談めかして答えている。
『ショーシャンクの空に』で真っ先にキャスティングが決まったのがモーガン・フリーマンだった。『ショーシャンクの空に』は原作も映画もレッドの視点から物語が綴られ、特に映画はレッドのナレーションが重要になる。
これは個人的な推測だが、モーガン・フリーマンのキャスティングにはその声の魅力もあったのだろう。フリーマンが俳優だけでなく、ナレーターとしても多くの作品に起用されているのが動かぬ証拠だ。
(ちなみにダラボンはナレーションを入れることに迷いがあったというが、マーティン・スコセッシの『グッドフェローズ』に影響を受けたと述べている)
ショーシャンク刑務所
レッドは新入りのアンディを見て、ここの連中と物腰が違うと感じる。このアンディ、原作では金縁眼鏡、30歳の小男という設定だが、映画では193cmもの長身であるティム・ロビンスが演じている。当初、アンディ役にはなどの候補が並んでいたが、モーガン・フリーマンの推薦によってティム・ロビンスに決まったという経緯がある。
アンディはレッドにロックハンマーの調達を依頼する。理由を訝しがるレッドにアンディは「(石の)趣味を復活させたいんだ」と答える。
ショーシャンク刑務所での日常はアンディには過酷だった。凶悪な囚人であるボグズとその一味に洗濯室でレイプされる。
この時アンディはドラム缶の中から粉を掴んで応戦しようとするが、これは小説ではヘクスライトという粉末で、濡れた肌につくと硫酸のような激痛を生むと説明されている。おそらくボグスらの目を狙ったのだろう(ヘクスライトという粉は実際には過炭酸ナトリウムの可能性が高い)。
ちなみにボグズを演じたのはマーク・ロルストン。 ロルストンは『エイリアン2』でドレイクを演じており、フランク・ダラボンは彼がオーディションに姿を見せたときは「『エイリアン2』のドレイクが来てくれるなんて!」と感激しきりだったそうだ。
だが、1949年に転機が訪れる。仲間と共に刑務所の屋根のタール塗りに志願したアンディは、看守の相続税に関する会話を耳にする。
囚人の立場で、看守に話しかけるなどもってのほかだ。特にショーシャンクではそれは死に等しい行為だった。
看守はアンディを屋上の淵に立たせ、「事故死」一歩手前まで追い詰めるが、アンディは元銀行家としての知識から、看守の節税をサポートするかわりに、仲間にビールを与えてもらうように取引を提案する。
ちなみに、この場面の撮影で、ティム・ロビンスと看守を演じたクランシー・ブラウンにはそれぞれ命綱がつけられていたが、のちにデジタル処理でそれを消すのに苦労したという。
一方、同じタイミングで公開された『フォレスト・ガンプ』では、ゲイリー・シニーズの脚があらゆるシーンでデジタル処理されており、ダラボンは「これが制作費の差だね」と苦笑している。
アンディへのスティーヴン・キング自身の投影
さて、約束通りアンディやレッドたちには看守からビールが配られるが、アンディは「酒はやめたんだ」と口にしようとしない。
このアンディのアルコールとの向き合い方にはおそらくスティーヴン・キング自身が投影されているのだろう。
主人公がかつてアルコール中毒、もしくはアルコールで失敗した人物という設定が多い。代表的なのは『シャイニング』の主人公である、ジャック・トランスだ。
ジャック・トランスはかつてアルコールによって子供に暴力を振るった過去があり、そのことを反省している真面目な善人として描かれている(あくまでキングの小説版の人物設定だ)。
キング自身もアルコールによって家族を失いかけた。1987年に妻から「治療を受けるか家族と別れるか」の選択を迫られたキングは治療によって依存症を克服している。
『失われた週末』から『ギルダ』へ
次に映画のシーンを説明したい。アンディが「リタ・ヘイワース」と出会う、重要な場面だ。
ショーシャンク刑務所では、受刑者向けに月1回程度、映画上映が行われている。
映画版ではリタ・ヘイワース主演の『ギルド』が上映されているが、小説版ではアルコール中毒者を描いたビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』が上映されているという設定だった。これもスティーヴン・キングのアルコールへの依存と脱却を投影したチョイスだったのだろう。
しかし、映画版においては、他社の作品は使用料が高く付く。先にも述べたように『ショーシャンクの空に』は決して潤沢な予算の映画ではない。
自社で賄える映画はないか、ということで採用されたのが『ギルダ』だった。
ちなみにこの『ギルダ』だが、作品の内容としては●●、
そしてこの『ギルダ』を観た後に、アンディはレッドにリタ・ヘイワースのポスターの調達を依頼する。
後日、ショーシャンクではぬきうちけんさあが行われる。その対象に選ばれたのはアンディだったが、彼の部屋には違法なものは何もなかった。
この時点でアンディの部屋には幾つかの写真が飾られているが、これらはティム・ロビンス自身が選んだものを使っているという。
抜き打ちの際、アンディが手にしていた聖書に目を留めた省庁は、聖書の好きな節をアンディに尋ねる。
「」アンディがを答えると、所長は「」とを自身の好きな説を返す。
実はこの聖書のやりとりも小説にはない。
後から解説していくが、映画版には小説と比べて全体的な宗教的な要素が盛り込まれている。タイトルの「The Shawshank Redemption」の「Redemption」は贖いという意味だが、具体的には「」という意味合いになる。
こうして(レッド曰く「所長から値踏みされた」)アンディは刑務所職員の資産運用や節税だけでなく、所長の裏帳簿に関わる不正経理のパートナーとしても動いていくことになる。
そんな中、新顔が刑務所に入ってくる。彼の名前はトミー。罪状は窃盗罪で、20歳の頃から様々な刑務所を渡り歩いてきた男だった。彼は独特の人懐っこさでアンディらの仲間に溶け込み、またアンディも高卒認定資格の取得を目指すトミーに学問を教えることが新たな生きがいとなっていく。
一方、トミーは以前の刑務所で同室だった男が、「銀行員の夫の妻とその浮気相手を殺したのは自分だ」と話したのを聞いていたことをアンディに告げる。
さらに、「その銀行員の男は殺人罪を着せられ、どこかの刑務所に送り込まれた」とその男は話していたという。
アンディは所長と面会し、再審を請求するが、もはやショーシャンク刑務所の不正に深く関わっているアンディを自由の身にさせることは、自らの破滅も意味していた。
所長はアンディにトミーの話はでたらめだと言い、再審をあきらめさせようとするが、アンディは決してあきらめようとはしなかった。
このトミーというキャラクターだが、小説と映画ではその結末が大きく異なるキャラクターだ。
アンディの事件において真犯人の情報を知っているという点においては同じだが、小説ではそのことについて誰にも二度と口外しないという条件で、緩い刑務所への移送が決まり、アンディの前から姿を消す。だが、映画版では口封じを目論んだ所長によって射殺される。
『刑務所のリタ・ヘイワース』から『ショーシャンクの空に』と変わる過程でフランク・ダラボンはショーシャンク刑務所をより悲惨な場所にし、アンディにもより過酷な運命を負わせる。
例えば映画で描かれた死はトミーだけではない。まずアンディともにショーシャンク刑務所へ送られた受刑者の一人が初日の夜に看守からリンチを受けて亡くなる。
また、小説版では高齢の受刑者が仮出所後の社会になじめずに老人ホームで死んだことがレッドの口からさらっと語られる程度だが、映画ではブルックスという名前で、アンディの配属先である図書の係という役割になっている。ブルックスは半世紀近く刑務所で暮らしており、レッドらとも親しい。
ブルックスもまた刑務所の中が安心できる場所になっており、塀の外に居場所がなかった。ブルックスの仮出所の日、門から出ていくブルックスをカメラは正面から捉えている。背景はショーシャンク刑務所の建物が埋め尽くしている。ブルックスの心はショーシャンク刑務所にあるままだ。
社会になじめずに日々不安に苛まれるブルックスはついに自殺する。部屋の壁に「ブルックスここにありき」という一文を遺して。
一方、小説にはない明るい場面もある。
それはアンディが勝手に刑務所の放送機器でモーツァルトの『フィガロの結婚』を流す場面だ。美しい音楽に受刑者たちもみな一様にスピーカーを見上げている。
フランク・ダラボンは言わば、絶望と希望のコントラストを小説より強くしている。
ショーシャンク刑務所の絶望はより強く、希望はより眩しく。
それが『ショーシャンクの空に』の最も重要なメッセージだからだ。
そう、今回『ショーシャンクの空に』を観返して、私は大きな勘違いをしていたことに気づいた。
この映画は正義を求める話ではない、希望を求める話であったのだ!
何を今さらと思う人もいるだろう。いやそれはその通りなのだが、もっと正しく言えば、正義すら犠牲にして希望を求める話なのであった。
ある朝、アンディは刑務所から姿を消す。
所長らが見つけたのは、ラクエル・ウェルチのポスターの裏に開いた大きな穴だった。アンディは小さなロックハンマーで、リタ・ヘイワースのポスターの影に隠れて19年間、壁を砕き続けたのだ。それはリタ・ヘイワースのポスターがマリリン・モンローに代わり、マリリン・モンローがラクエル・ウェルチに代わっても続けられた。
もちろん気になることはある。
作品の中でレッドは「トミーの死をきっかけに決意したのだろう」と言っていたが、アンディが穴を掘り出したのは刑務所に入って、ロックハンマーを注文した時からなのは確実だ(そうでなければロックハンマーの調達を求めたりしないだろう)。再審が拒否されたから脱獄を決意したわけではない。そのはるか前から準備は行われていた。だが、アンディにとっての希望は「壁を削り、穴を掘ること」だった。
トミーの死とともに、「受刑者としてのアンディ」も死んだのだろう。
先に『ショーシャンクの空に』に、キリスト教の大きな影響を感じると書いた。
アンディは「罪人」としてショーシャンクへやってくる。それはイエス・キリストが「人心をかどわかした」という実質の無罪で死刑を宣告された様にも似ている。
アンディを暴行するボグスや残忍な看守たちは磔刑前にイエスを拷問したに重ねられる。
この他にもアンディがビールを与えることになる12人の仲間たちはキリストの12人の使徒に思えてくる。もちろんアンディがビールや『フィガロの結婚』のような奇跡を起こしたことも含めて。
そして無事脱獄に成功し、アンディは「ランドール・スティーブンス」として新しい人生を始める。
「ランドール・スティーブンス」とは、不正経理の責任者として作られた架空の人物だ。万一不正が明らかになった場合でも、責任は所長ではなく、彼に向くようにアンディが一計を案じたのだった。
社会的には死んだも同然のアンディが全く新しい人生を始める。これは言うまでもなくキリストの復活にもなぞらえる事ができるだろう。
ちなみに本作品と関わりがあるわけではないが、
レッドは「
後悔しない日などない
罪を犯したその日からだ
あの当時の俺は
1人の男の命を奪った バカな若造だった
彼と話したい まともな話をしたい
今の気持ちとか
でもムリだ
彼はとうに死に
この老いぼれが残った
罪を背負って
更生? 全く意味のない言葉だ
不可の判を押せ
これは時間のムダだ
正直言って
仮釈放などどうでもいい
」このセリフだが、小説では序盤でレッドの心の声として登場する。
映画版では最後の仮釈放として用いられる
小説ではここで終わるが、
ネルソン・マンデラ
本作とは全く関係のない作品ではあるが、1999トロイ・ダフィー監督の
この作秘