
※以下の考察・解説には映画の結末のネタバレが含まれています
※この解説記事は3万6000字を超えるボリュームで構成されています。
子供の頃、本の中で紹介されていた「未来の暮らし」は今で言うネットショッピングや、オンラインゲーム、そして空飛ぶクルマや宇宙旅行だった。前者に関してはインターネットの発達でもはや日常となったが、後者に関してはほとんど実現していない。
『ブレードランナー』の世界は2019年だが、冒頭からクルマ(スピナーと呼ばれている)は宙を行き交い、人々は宇宙までその活動範囲を広げている。
『ブレードランナー』という共通言語
私が『ブレードランナー』を初めて観たのは2011年。すでに公開から30年近くが経っていた頃だ。前々から様々なメディアなどで『ブレードランナー』という凄い映画があるとは知っていた。ただ、難解だという噂や、暗い内容ということでなかなか食指が伸びなかったのだ。
混沌の未来都市
初めて観た時の驚きは今も覚えている。30年前の映画なのに、この未来都市の圧倒的なビジュアルは何なんだ?

左下には漢字の看板が。『ブレードランナー』はそれまでのSF映画における未来都市のイメージを一変させた。
言葉で説明するのも陳腐だが、西洋の建築物に日本を初めとするアジアの商品や文化が映し出される光景。古い物と未来の物が混在しているのに違和感を感じさせない。混沌の未来都市は30年経っても衰えない衝撃に満ちていた。
多くの映画の原点
その時初めて、私自身がこれまでに観てきた多くの映画の原点に『ブレードランナー』があることが分かった。『イノセンス』の冒頭の場面、『バイオハザード』でのアリスの目のアップ、『CASSHERN』の荒廃した未来都市、他にも列記できないほど多くの作品が『ブレードランナー』に少なからず影響を受けているのは間違いない。

押井守監督『イノセンス』のオープニング。『ブレードランナー』のオープニングの雰囲気に酷似している。
いや、映画だけではない。
例えば私が大学生の頃にリリースされたL’Arc~en~Cielのシングル『NEXUS4』。タイトルからして『ブレードランナー』だが、当時はそんな影響なんて気づかなかった。しかし、今思うと歌詞にはElectric Sheep(=電気羊)も登場し、『ブレードランナー』が楽曲の強烈なモチーフになっているのは間違いない。さらにBUCK-TICKの楽曲には『疾風のブレードランナー』という曲もある。
『ブレードランナー』はもはや映画の枠すら超えて、一つの世界的な共通言語と言ってもいいだろう。
2015年には、シカゴ・サンタイムズ紙が『12モンキーズ』『トータル・リコール』『未来世紀ブラジル』『ガタカ』『ダークシティ』などの映画について『ブレードランナー』のビジュアルイメージの影響下にあると書いている。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
『ブレードランナー』の原作はフィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』だ。

フィリップ・K・ディック。自らの体験から、現実の脆さと個人のアイデンティティをテーマとすることが多かった。
ディックはSF作家だが、そこで描かれる未来は明るい未来ではなく、漆黒のディストピアだった。
今でこそ、その著作は数多く映画化され、著名な作家となったディックだが、生前はほとんど無名であり、死ぬまで経済的には不遇だった(1977年に『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が日本で出版された際、そのあとがきには「日本におけることの作家の人気が必ずしも高いとは言えない」と書いてあった)。
荒廃した未来
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(以下『電気羊』)は1968年に出版された。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』一風変わったこのタイトルは様々なクリエイターにオマージュされている。
舞台は核戦争後のサンフランシスコであり、主人公のリック・デッカードは警官で、人間に混じって逃亡しているアンドロイドを狩るバウンティ・ハンターとして暮らしている。『電気羊』の世界では、核の影響によって生物は死に絶え、地球で暮らす人間は不妊となっている。
余談だがP・D・ジェイムズのSF小説『人類の子供たち』の「人間が妊娠できなくなった世界」は『電気羊』からの影響ではないだろうか?
『人類の子供たち』は2006年にアルフォンソ・キュアロン監督によって『トゥモロー・ワールド』として公開されている(原題は小説と同じ『Children of Men』)。『トゥモロー・ワールド』もまた公開時は興行的に失敗、その後に高い評価を得るなど、奇しくも『ブレードランナー』と似たような歩みをたどっている。
電気羊の意味
第三次世界大戦によって破壊された1992年の地球では、放射性降下物が蔓延し、動物はほとんど死に絶えていた。『電気羊』の世界では本物の動物を飼うことが社会的なステータスになっている。飼わないものは不道徳で同情心がないとみなされるのだ。デッカードもかつては本物の羊を飼っていたが、病気で死んだため、今は本物と見分けのつかない「電気羊」を飼って周囲の目をごまかしている。本物の生物は高価で、今のデッカードの暮らしでは手が届かない。
そんな中、デッカードは逃亡している8名のアンドロイドの処分を命じられる。もし、すべて処分できたなら、その報酬で本物の動物が飼える—。
アンドロイドは他者への共感が欠落しているとされているが、中には人間以上に人間らしいアンドロイドも存在することに気づく。デッカードは次第に自分の任務に疑問を抱き始め、自分自身こぞアンドロイドではないかと疑うようになっていく。
自分とは何か?
ディックはその著作を通して「自己とは何か」を問い続けた。
ディックの問いは非常に根源的だ。
「私を私たらしめているのは何なのか?」
それは幼い頃から統合失調症を患い、またその苦しみから逃れるためにドラッグに溺れていたという彼自身の人生から生まれた問いだった。ディックはその死後、多くの著作が映画化された。1966年の著作『追憶売ります』は1990年にポール・ヴァーホーヴェン監督で『トータル・リコール』として公開された。
『トータル・リコール』では火星に移住したいと望む主人公が、叶わない願いの代わりに火星旅行の疑似記憶を購入しようとする。だが、記憶の移植は失敗。しかし、主人公はかつて自らが火星に住んでいたことを思い出す。では、今の自分は一体誰なのか?本作では「記憶」を通して「自分」が目まぐるしく変わっていく。
また1956年の著作『少数報告』は2002年にスティーヴン・スピルバーグ監督で『マイノリティ・リポート』として公開された。
『マイノリティ・リポート』は特殊能力車によって犯罪が予知でき、未然に防げるようになった未来が舞台だ。主人公は犯罪予防局に務めているが、ある日、彼が殺人を犯す場面が予知される。
そのどちらも「自分とは何か?」「私は本当に私なのか?」というテーマが物語の根幹に存在している。
『電気羊』着想のきっかけ
ディックが『電気羊』の着想を得たきっかけには諸説ある。
映画評論家の町山智浩氏は著作『〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』の中で、『電気羊』の着想は執筆当時のピッピー・ムーブメントから来ていると述べている。執筆当時、すでに40代であったディックの目には従来の価値観に対抗する対抗文化(カウンターカルチャー)に染まった若者はさぞ奇異に映ったことだろう。
一方、『メイキング・オブ・ブレードランナー』の著者でもあり、実際に撮影にも立ち会ったポール・M・サモンは『ブレードランナー』に関する人々のインタビューを集めた本『ブレードランナー証言録』の中で『電気羊』にはディックが、カリフォルニア大学バークレー校の図書館で、あるゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密警察)の日記を読んだことが反映されているという(おそらく『高い城の男』執筆のためのリサーチ中の出来事だ)。
そこには、「収容所のユダヤ人の子供たちが夜中に泣き叫ぶので寝不足になる」と書いてあった。ディックは、これから殺される運命にある子供たちについて、どうしたらそんなことが書けるのか理解できなかったという。「彼らは人間ではない」とディックは感じた。
「私は彼らが高い知能を持ちながらもある意味決定的な欠陥があったことを知った。彼らの知的な行いに伴っていたのは、不適切な情動や感情だったんだ。
そしてナチスの思考を研究するうちに、そのシステムや中核グループとして組織されたSSの存在に注目した。非常に高い知性をも密人間が、それほどまでに感情面で劣りうるという可能性に突き当たり、もはや彼らを『人間』とは呼べないのではないかと思った。私が作品の中で『アンドロイド』や『ロボット』いう言葉を使って表現してきたのは、そういう精神的に欠陥のある、もしくな正常でない状態の、病的な人間を指しているんだ」
そうして「人間ではない人間」という『電気羊』のテーマが誕生した。
果たしてこのどちらが『電気羊』のルーツかはわからない(両方の可能性もある)。だが、『電気羊』がアンドロイドという「人間もどき」を用いて、「人間とは何か」の探求を試みたのは確かだ。
『ブレードランナー』が映画化されるまで
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は出版後、早くから映画化の話が出ていた。すでに出版翌年の1969年にはマーティン・スコセッシが映画化を目指して動いていたが、失敗している。
さらに1970年代初めには映画プロデューサーであるハーブ・ジョッフェが映画化に乗り出すものの、ディックはジャッフェの書いた草稿が気に入らず、映画化を断っている。
そして、次に『電気羊』の映画化を目指したのが先にも述べたハンプトン・ファンチャーだ。
ハンプトン・ファンチャー
ファンチャーは1938年、カリフォルニア州イーストロサンゼルスに生まれた。元々は『二十歳の火遊び』『恋愛専科』などに俳優として出演していたが、役者としては脇役に留まり、売れないままでやがて脚本家を志すようになった。
ファンチャーは『ブレードランナー証言録』の中で「1978年か79年に『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだ」と述べている。それについて、『ブレードランナー』のメイキング作品『Dangerous Days:Making Blade Runner』の中で、ファンチャーはSFのジャンルで脚本を書きたいと考えていたところ、友人のジム・マクスウェルからお勧めされたのがフィリップ・K・ディックの小説だったと語っている。

『Dangerous Days:Making Blade Runner』の中で、当時を振り返るファンチャー。
小説で書かれているいくつかの要素に映画的な魅力があると感じたファンチャーは、ディックに映画化権の獲得を打診する。当初、ディックはその申し出を断ったが、ファンチャーは友人のブライアン・ケリーをディックの元へ送り込み、映画化権の交渉が続けられた。やがてディックは経済的な理由もあり、2000ドルで映画化権を売った(ディックは先にフランスの会社に優先映画化権を与えていたが、運良くその期限が切れていたのだという)。
そしてファンチャーは脚本に取り掛かる。出来上がった初稿のタイトルは『メカニズモ』。このタイトルはSF作家ハリイ・ハリスンの小説のタイトルからとられている。
ファンチャーはそれを映画プロデューサーであるマイケル・ディーリーに見せたが、評判は良くなかった。その後改稿したものこそ「最高ではないが面白い」との評価を得たが、ポール・М・サモンによると、原作者のディックは「単なるロボットの捕獲劇だ」とその脚本も気に入らなかったという。その後、脚本のタイトルは『メカニズモと危険な日々』へ変わり、「メカニズモ」が無くなり『デンジャラス・デイズ』に決定する。
さて、一方のファンチャーも当時を振り返って「ディックの本の内容は面白いと思えなかった」と述べている。しかし、一人の男が何体かのアンドロイドを追うというプロットには映画的な魅力を感じていた。
ファンチャーは当時レイモンド・チャンドラーの著作を読み漁っており、『デンジャラス・デイズ』を未来を舞台にしたフィルム・ノワールのようにしたいと願っていた。
フィルム・ノワール
フィルム・ノワールとは一般に1940年代から1950年代後半にかけて、ハリウッドで製作された犯罪映画のジャンルを指す。ただ、先に伝えておきたいのは、フィルム・ノワールは映画の分類の一つだが、それに明確な定義はないということだ。ただ、一般的には黒(フランス語で黒をノワールという)を基調としたコントラストを際立たせた映像や、「ファム・ファタール(運命の女を意味する)」と呼ばれる悪女の存在、犯罪者や腐敗した警察官など反社会的な男性の主人公、そして、一人称のナレーションなどが挙げられる。
また、フィルム・ノワールの作品の多くがハードボイルドの犯罪小説に大きな影響を受けている。そのために、作品の舞台も閉塞感の漂う現代の大都市で、孤独な男が主役の作品が多かった。
フィルム・ノワールの流行には2つの理由が考えられる。
一つはドイツを初めとするヨーロッパの映画製作者がナチスの迫害を逃れてアメリカへ亡命してきたこと。ドイツは映画大国であり(ホラー映画の最初期の傑作『カリガリ博士』もドイツ映画)、ハリウッドとはまた違った映画手法を持っていた。それはそのままフィルム・ノワールの特徴としてハリウッドでも発揮された。
もう一つは戦争による厭世観によって、従来のハリウッドで盛んに作られていた明るくハッピーエンドの物語が受け入れられにくくなっていたことだ。
映画監督のフランク・キャプラは戦前「キャプラスク」と呼ばれる独自のヒューマニズムとハッピーエンドの作風でハリウッドの巨匠として活躍していた。ファシズムの脅威がアメリカにも迫っていた1941年には『群衆』というややシリアスな作品も撮っているが、戦後間もない1946年に公開された『素晴らしき哉、人生!』はかつてのキャプラスクのようなヒューマニズムとハッピーエンドにあふれた作品だった。しかし、同作は興行的・批評的に惨敗。キャプラのキャリアを事実上閉ざしてしまうこととなった(今日では『素晴らしき哉、人生!』は映画史上の傑作として再評価されている)。
この後、1950年代には再びハッピーエンドがハリウッドの主流となる。その背景にはアメリカが戦勝国として目覚ましい経済発展を遂げたことが挙げられる。好景気によって生活水準は上昇し、テレビやラジオによってライフスタイルは大きく変化した。
だが、この時代のアメリカが不都合な真実を隠していたのも事実だ。それは1960年代に一挙に吹き出す。1950年代に普及したテレビは次々に真実を映し出した。無辜のベトナム市民を虐殺するアメリカ兵、生中継の途中に暗殺されたケネディ、非武装の黒人を武力で制圧する警官隊…1960年代にアメリカの真実に絶望した若者たちを中心に旧来の価値観に対抗する「カウンターカルチャー」が勃興する。それは若者たちを中心にした親世代への反抗だった。
しかし、彼らが髪を伸ばし、反戦を唱えてもベトナム戦争は止まらなかった。社会への挫折はアメリカン・ニューシネマという映画ジャンルを生み出した。それは1950年代の幸せな時代への反動であり、個人が体制に逆らい、自由を求めていても、やがては体制によって潰されるというアンチ・ハッピーエンドとリアリズムを持っていた。そして、フィルム・ノワールもまた、暗い世相を反映して再び活発になっていく。
そんな第二期フィルム・ノワールで活躍したのがロバート・ミッチャム。ミッチャムはレイモンド・チャンドラーの小説を映画化した『さよなら愛しい女よ』でフィリップ・マーロウを演じていた。

『さよなら愛しい女よ』でフィリップ・マーロウを演じたロバート・ミッチャム。彼こそがデッカードの原型だった。
「未来世界のフィルム・ノワール」を目指したファンチャーは当初、デッカードの候補にロバート・ミッチャムを想定していたという。
リドリー・スコット
当時は『スター・ウォーズ』のヒットを皮切りとして、ハリウッドにもSF映画の波が来ていた(リドリー・スコットが注目を集めるきっかけとなった前作『エイリアン』も、その波に乗る形で製作が決まった)。
『デンジャラス・デイズ』もまた、その波を受けて注目を集め、出資者も徐々に増えていった。そこで監督としてオファーされたのが、『エイリアン』を作り上げたリドリー・スコットだった(ファンチャーは当初『アラバマ物語』で知られるロバート・マリガンが監督に内定していたと語っている)。

監督のリドリー・スコット。2024年に「好きな映画を4本教えてください」と質問された際には、自作の『ブレードランナー』をそのうちの一つとして挙げている。
リドリー・スコットは1937年イギリスのサウス・シールズに生まれた。名門のロイヤル・カレッジ・オブ・アートを卒業し、CMディレクターとして数千本もの作品を手がけていた。40歳になる1977年には『デュエリスト/決闘者』で映画監督としてデビュー。その2年後には『エイリアン』のヒットで映画監督としてもブレイクすることになる。
『エイリアン』の未来描写は『ブレードランナー』と共通する部分もある。『エイリアン』の舞台は2122年と、『ブレードランナー』より遥かに未来だが、宇宙船のクルーの服装を見ると、それほどの未来感はなく、むしろ現代の宇宙服に近い。よくある「体にピタッと張り付くような銀色に輝く宇宙服」などの未来のイメージは『エイリアン』にはない。

『エイリアン』のクルー達。ノストロモ号が宇宙貨物船ということもあり、労働者階級のように見える。
また『エイリアン』も決して潤沢な予算ではないが、スコットは様々なアイデアを駆使してそれがわからないようにしている。こうした部分もスコットが『ブレードランナー』の監督に抜擢された理由でもあるのだろう。
しかし、スコットは一度そのオファーを断っている。当時のスコットはフランク・ハーバートのSF小説『デューン』の映画化に取り組んでいた。『デューン』はかつて『エル・トボ』のアレハンドロ・ホドロフスキーが映画化に取り組んでいたが頓挫、巡り巡ってリドリー・スコットに監督の話が来たのであった。
リドリー・スコットは『エイリアン』を超えるSF大作である『デューン』に惚れ込んでいた。
「『スター・ウォーズ』に限りなく近い、見事なSF大作」
スコットは『デューン』をそう評している。スコットはかつて『2001年宇宙の旅』に衝撃を受けたが、ジョージ・ルーカスが1977年に『スター・ウォーズ』を発表したときには、その出来に感服し、先を越されたという挫折感に打ちのめされたという。
しかし、ホドロフスキー同様、スコットの『デューン』も実現することはなかった。制作がうまくいかないことに加え、兄が胃がんで急逝したこともあり、スコットは『デューン』を降板。そして1982年2月、スコットは『ブレードランナー』の監督に就任したのである。
スコットがまず行ったことは脚本の書き直しだった。スコットはディックの原作は読んでいない(冒頭20ページであまりの情報の多さにイライラして読むのをやめてしまったという)。しかし、ファンチャーの「未来のフィリップ・マーロウ」という脚本のアイデアは気に入っていた。だが、スコットから見ると、ファンチャーの脚本はデッカードの内面に集中しすぎているように感じられた。
『ロング・トゥモロー』
「窓の外はどうなっている?」スコットはファンチャーに尋ねた。当初の脚本はアパートの中で話が進行していく、ごく小規模なものだった。
ファンチャーは「外は構うな」と答えたが、スコットは『ヘヴィ・メタル』を持ってきた。
『ヘヴィ・メタル』はアメリカで発刊されていたコミック雑誌だ。元はフランスで発刊されていた『メタル・ユルラン』というコミック雑誌で、『ヘヴィ・メタル』はそれのアメリカ版に当たる。『デュエリスト/決闘者』の撮影中、プロデューサーのイヴォール・パウエルットに読むように薦められたのが、スコットと『ヘヴィ・メタル』の出会いだった。
スコットは『ヘヴィ・メタル』の中に掲載されているメビウスの『ロング・トゥモロー』をこれからつくろうとしている映画の世界観として求めた。
『ロング・トゥモロー』の原作はダン・オバノン。オバノンは『エイリアン』の生みの親として知られている。オバノンの閃きから『エイリアン』は生まれたからだ( オバノンは『エイリアン』の原案ならびに脚本としてクレジットされている)。
それをコミックにしたのがメビウス(本名ジャン・ジロー)だった。メビウスもコンセプトアートの担当として『エイリアン』の制作に関わっていた。つまり、オバノンもメビウスも既にスコットとは見知った間柄でもあったのだろう(ちなみにオバノンとメビウスはともにホドロフスキーの元で『デューン』にも関わっている)。『エイリアン』の制作中にダン・オバノンから紹介された作品が『ロング・トゥモロー』だった。『ロング・トゥモロー』はそれまでのSFと違い、未来都市でありながら汚れた街並みが描かれていた。また、主人公が探偵であることも、「未来のフィリップ・マーロウ」 との共通点があった。
ハリソン・フォード
一方、この作品の主演俳優選びは難航した。ファンチャーはロバート・ミッチャムを想定して脚本を書いていたが、スコットとプロデューサーの候補者リストの中にはアル・パチーノやピーターフォーク、バート・レイノルズ、ニック・ノルティ、ダスティン・ホフマンらの名前が挙がっていた。中でもダスティン・ホフマンは長きにわたって候補者リストの中に入っていた。
スコットはニューヨークで何時間もホフマンと話し合ったという。ダスティン・ホフマンを想定した絵コンテも残されているが、話し合いを進めるほど、スコットとホフマンの方向性の違いは鮮明になっていった。

ダスティン・ホフマンをイメージした絵コンテ。しかしホフマンはマッチョな役柄が嫌で最終的には断ったという。
そんな中、女優のバーバラ・ハーシー(当時はファンチャーの恋人でレイチェル役のオーディションを受けていた)から紹介されたのがハリソン・フォードだった。
フォードはその頃、スティーブン・スピルバーグの『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の撮影中だった。
実際にフォードと会ったスコットは、その出で立ちをハンフリー・ボガート(『ハイ・シェラ』や『マルタの鷹』のようなフィルム・ノワール作品や『カサブランカ』などに主演したハードボイルド俳優)のようだと感じ、フォードこそデッカードにふさわしいと思うようになった。ただ帽子だけはインディ・ジョーンズのイメージもあり、フォードが拒否したという。
『デンジャラス・デイズ』から『ブレードランナー』へ
『ブレードランナー』の初期の脚本名は『デンジャラス・デイズ』だったが、のちに『ブレードランナー』へと変更されている。
もともとディックの原作の中にはブレードランナーという言葉もレプリカントという言葉も登場しない。原作ではデッカードの職業はバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)と呼ばれている。しかし、リドリー・スコットはバウンティ・ハンターという職業名では平凡過ぎるとファンチャーに変更を依頼する。
そこでファンチャーは自宅の本棚の中から、ウィリアム・バロウズの『ブレードランナー』という小説を見つけた。そこでは、ブレードランナーという言葉は手術用のメスの密売人を指している。Blade(医療用機器)Runner(密売人)というわけだ。
バロウズの『ブレードランナー』も元々はアラン・E・ナースの書いた小説『ブレードランナー』が元になっている。ナースは医師でもあり、その著作には医療をテーマにしたものも多い。
レプリカント
しかし『ブレードランナー』の脚本のリライト作業の中で、ともにこだわりの強いスコットとファンチャーは大きく対立しする(ファンチャー曰く、「4、5回はケンカした」)。
スコットはファンチャーを降板させ、代わりにデヴィッド・ピープルズを新たに脚本家として雇い入れる。哲学的な内容だったファンチャーの『ブレードランナー』に対して、ピープルズの脚本はより映画向きの内容を目指した。
当然スコットの脚本への要求はピープルズにも続いた。その一つが「アンドロイド」という呼称の変更だ。
ディックの小説の中ではデッカードが追うのは「レプリカント」ではなく、タイトルの通り「アンドロイド」だ。『電気羊』の中では「有機的アンドロイド」と形容されている。スコットも『エイリアン』の中で既にアンドロイドとしてアッシュというキャラクターを登場させている。アッシュもまた機械仕掛けの体ではなく、有機的アンドロイドと言っていいだろう。
しかし、『ブレードランナー』のアンドロイドは人間と同じ感情を持ち、赤い血が流れる。それを今までと同じようにアンドロイドと呼ぶのはどうだろうか。より人間的な人造人間にふさわしい呼び名はないか、そう考えたに違いない。
そこでピープルズは「レプリカント」という造語を提案する。それは当時UCLAで化学専攻の学生だった娘から聞いた、分子生物学のreplicate(複製、再生)という言葉をヒントに作られた造語だ。
『ブレードランナー』は商業的にも大成功を収めるでしょう
さて、ここで当のフィリップ・K・ディックは自著の映画化をどう見ていたかを押さえておきたい。前述のように、ファンチャーが書いた脚本の初稿にディックは満足していなかった。むしろ、「なぜ私に脚本を依頼しないのか」とすら思っていたという。
ディックにしてみれば、ファンチャーの書いた脚本は「古ぼけた月並みなフィリップ・マーロウとサム・スペードを足して2で割ったような」作品で原作におけるテーマは失われ、ただアンドロイドと人間の撃ちあいばかりの内容になってしまったという(ファンチャーも『電気羊』の内容を気に入っていなかったことから、この改変はそう驚くことではないだろう)。
その後ディックは一転してデヴィッド・ピープルズの書いた脚本は絶賛しているが、小説では一貫して「アンドロイド=悪」で書かれていたものが、映画版だとレプリカントは人間を超える存在(リドリー・スコット曰く「空を飛べないスーパーマン」)になってしまうことには最後まで不満を抱えていた。
しかし、リドリー・スコットの作った『ブレードランナー』の20分ほどのラッシュを観た際には自身のイメージした通りの未来世界のビジュアルが完璧に表現されていることに驚き、作品を賞賛した手紙を送っている。
「他に類を見ない新しいグラフィック、芸術的表現が生まれるかもしれないということです。そして、『ブレードランナー』は、SFとは何か、そしてそれ以上の可能性とは何かという私たちの概念に革命を起こすだろうと私は考えています。(中略)私の作品、そして私のアイデアがこれほどまでに驚異的な規模にまで昇華されるとは思ってもいませんでした。
私の人生と創作活動は、ブレードランナーによって正当化され、完成されました。ありがとうございます…そして、これは商業的にも大成功を収めるでしょう。きっと無敵の成功となるでしょう」
しかし、ディックは完成を見届けることなく、53歳の若さで脳卒中によってこの世を去る。
ディックの手紙の予言が外れたのは皆さんもご存知の通りだ。『ブレードランナー』の難解でダークなストーリーは公開当時、観客からも評論家からも理解されなかった。
それはなぜだろうか?
ここからは映画の内容を見ていきながら、作品に込められた意味や謎を解説していく。
『ブレードランナー』
『ブレードランナー』にはいくつかのバージョンがあるが、ここでは「ファイナル・カット」をベースに解説と考察を進めていく。それが監督のリドリー・スコットが最も望んだ『ブレードランナー』だからだ。
「ファイナル・カット」や続編の『ブレードランナー4049』が製作されたことで、『ブレードランナー』はある程度「理解しやすい」作品となった。
しかしながら、それでも『ブレードランナー』が多くの解釈や考察を求める作品であることも、今回解説を書いていく中で改めて実感した。
多くの人がこうした解説に求めるのは謎に対する「正解」だと思う。私個人としても、そこに近づくべく力を尽くしたが、どうしても以下の文章には個人的な解釈が入り込んでしまうことをお許しいただきたい。
オープニング
原作の『電気羊』はデッカードの寝室から物語が始まるが、『ブレードランナー』では近未来のロサンゼルスの圧倒的な都市風景から始まる。まずここで度肝を抜かれるだろう。山も森もない、満たす限りビルで埋め尽くされ、採油場からは炎が舞い上がっている。

リドリー・スコットによると、赤い空は環境汚染を表しているという。赤い空からは絶えず酸性雨が降り注いでいる。
リドリー・スコットによると、この風景には出身地であるニューカッスルのハートリプールにあった巨大な製鉄所のイメージを投影しているのだという。
オープニングには脚本段階で様々な案があった。
一つは丸太小屋の中で煮立った鍋があり、そこにデッカードが登場するという始まり。これはファンチャーがスコットに提案し、絵コンテまで描かれたものの、なぜか映像化されなかった。ちなみにこのオープニングは続編の『ブレードランナー2049』で採用されている。
もう一つはオフワールド(宇宙植民地)に壊れたレプリカントが積み上げられている。その中からロイが現れるというものだ。
それに比べるとこのオープニングは壮大で圧巻だ。いきなり『ブレードランナー』の世界が観るものに突きつけられる。このオープニングの都市風景は「リドリー・インフェルノ(リドリー・スコットの地獄)」と呼ばれた。
目
だが、それと同じくらいにインパクトを与えるのが時折インサートされる人間の目だ。

その瞳には「リドリー・インフェルノ」が映っている。地獄を見て目の主は何を思うのか?
2002年に公開された『バイオハザード』でアリスが目覚めるシーンはアリス自身の目のアップから始まる。おそらく『ブレードランナー』の「目」に影響を受けているのだろう。しかし『ブレードランナー』のこの目は一体誰の目なのだろうか?
町山智浩氏は目の持ち主を反乱レプリカントのリーダー、ロイではないかと推測している。同じくリドリー・スコットが監督を務めた『エイリアン:コヴェナント』でも同じように目のアップから物語が始まる。その目はアンドロイドであるデイヴィッドの目だ。デイヴィッドは後にアンドロイドでありながら、人間に反乱を起こす。その名前の由来となったダビデ王のように。だとしたら、『ブレードランナー』でその役割を負うのはロイだ。ゆえにその「目」はロイの目ではないかというわけだ。
しかし、リドリー・スコットによると、その目は「支配者」の目であると言う。つまり、『ブレードランナー』の世界がいかに監視社会であるかの比喩となっている。
そう考えると、デイヴィッドは「支配者=神になろうとしている」からこそ、目のアップなのであり、『ブレードランナー』で同じ野心を持つのは、レプリカントの製造会社であるタイレル・コーポレーションの社長であるタイレルになる(しかし、タイレルの目は青くない。やはりここは概念上の支配者と考えるのが妥当なのか?)。
1980年代のアメリカ
『ブレードランナー』の世界観は1980年当時のアメリカの状況も反映している。スコットは『ブレードランナー』ではごくわずかな大企業が世界を支配していると述べている。
1980年に大統領に就任したロナルド・レーガンは大企業に大幅な減税をおこなった。その結果、大企業はさらに力をつけ、大企業が他の会社を吸収、多角的に事業を行うコングロマリットとして大きな影響力を持つようになる。
古代は神が政治を支配していた。為政者は神からの宣託を受けて国を治めていた。中近代においては政治を支配したのは血と言えるだろう。ハプスブルク家や日本で言えば天皇家がそれにあたる。
一方現代はというと、より『ブレードランナー』の世界に近づいたように思える。公開当時には存在していないが、GAFAを中心とするIT企業は、法律の抜け穴を利用し、法人税もほぼ払わず、独禁法も無視して人々の生活に大きな影響力を持つようになった。
『ブレードランナー』では、「強力わかもと」をはじめとして、多くのCMが映し出される(ロマンティックなラブシーンの前後にも!)。だがそれが具体的に何の商品かはわからない。それでも広告によって人々は購買意欲をかき立てられ、モノを消費していく。もはや、それが本当に欲しいものなのかどうかはもはや分からない。

この強力わかもとのCMは映画独自に作られたもの。ちなみにわかもと製薬の許可はとっていなかったという。
数千本のCMを撮影してきたリドリー・スコットはその魔力もよくわかっていたのだろう。自分の欲求一つですら、本当の欲しがっているなのか、それとも欲しがるように誘導されたのかはわからない。それは現代の私たちと『ブレードランナー』にも共通することではないだろうか(ちなみに『ブレードランナー』の劇中では「強力わかもと」は胃腸薬ではなく、避妊薬という設定らしい)。
また、『ブレードランナー』は日本文化をはじめとして多くの人種が混在する世界観が描かれている。ここには、当時の日本が世界的にも大きな存在感と影響力を持っていたことが反映されている。
1980年代を中心とする同時代の映画にもそれは描かれている。
例えば、リドリー・スコットの前作である、1979年に公開された『エイリアン』では、日系企業のウェイランド・ユタニ社が世界的な大企業として表裏問わず暗躍している。1985年に公開された『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で主人公の憧れのクルマとして登場するのはトヨタのハイラックス、1988年に公開された『ダイ・ハード』の舞台は日本の大企業ナカトミ・コーポレーションの所有する超高層ビル、ナカトミプラザだ。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『ウォール街』、『フロントランナー』、『ジョーカー』・・・1980年代に作られた映画、もしくは1980年代を舞台にした映画を考察していくと、ロナルド・レーガンの名前を登場させなければならない作品が[…]
さて、いよいよ『ブレードランナー』の物語に入っていこう。
またもスクリーンに眼球のアップが映し出される。だが、この目はさっきまでの目とは違う。タイレル・コーポレーションであるテストが行われているのだ。
そのテストとは、フォークト=ガンプフ検査。人間とレプリカントを判別するテストだ。
フォークト=カンプフ検査
この検査では検査する者は専用の装置を用いて、2〜30の質問を対象者に投げかけ、その質問に対してどのように感情が動いたかを目の中の虹彩と、体から発せられる粒子で人間か、レプリカントか判別できるようになっている。
アップの目はフォークト=カンプフ検査の対象者であるリオンの目だった。レオンに検査を行ってるのはブレードランナーのホールデン。ブレードランナーとは、逃亡したレプリカントを解任(抹殺)する任務を負った専門捜査官だ。
ホールデンはリオンに次の質問をする。
「思いついた言葉で母親を描写したまえ」
リオンは「返事はこれだ」と言い、ホールデンを銃撃する。そう、人工物であるレプリカントに母親の記憶があるはずもない。
ちなみにこのホールデンについては解説によっては殺されたことになっていたり、または重傷となっていたりと解釈が解説者それぞれで異なっているのだが、『ブレードランナー』の未公開シーンとしてデッカードが集中治療用カプセルにいるホールデンを見舞うシーンがあることから、死んではいないとするのが妥当だろう。
リドリーヴィル
カメラはタイレル社から一気に離れて一般市民の暮らす街を映し出す。そこは絶え間なく雨が降り続ける薄汚れたロサンゼルス。環境汚染は極まり、ビルは取り壊す金もないので、古いビルにそのまま新しいパーツが取りつけられ、無秩序に増殖している。

『ブレードランナー』の都市風景は「まだ超高層ビルに支配される前の香港」がモチーフになっている。
これらのデザインを手掛けたのが「ビジュアル・フューチャリスト」のシド・ミード。もともとは美術部門のいちメンバーに過ぎなかったが、担当していたクルマのデザインに、クルマのみならず、その背景まで描きこみ(ミードは「工業製品は、それが使用される状況や環境とセットでデザインされなければならない」というポリシーを持っていた)、それに魅了されたスコットは、作中のあらゆる工業デザインをミードに依頼した(強力わかもとのCMもミードのアイデアと言われている)。
スコットは『ブレードランナー』の都市風景はもう一人の主役だと考えていた。労働者階級は下層の町に住み、富裕層は上に住む、ピラミッドのような階級世界。それが『ブレードランナー』の世界だった。タイレル・コーポレーションの本社もマヤのピラミッドに影響を受けたデザインになっている。
多くの貧しい者と少数の富める者が生活する悪夢の未来都市…『ブレードランナー』の都市風景は「リドリーヴィル」と呼ばれた。『素晴らしき哉、人生!』でポッターが支配した悪夢のような町、「ポッターヴィル」になぞらえているのだろう。
だが、『ブレードランナー』は決して予算が潤沢な映画ではない。細部の粗を隠すため、撮影は夜になり、常に画面には雨が降り注いでいた。
「私の武器は、夜と雨と煙だった」とスコットは撮影を振り返っている。
しかし、スコットの美術における強いこだわりのためにクランクイン3日にして、すでに2週間の遅れが生じていた。主演のハリソン・フォードはセット待ちの時間が増え、かつ50日間の撮影のうち、35日は夜間撮影だった。共演者のショーン・ヤングは「フォードはクランク・アップの直前以外は終始不機嫌だった」と回想している。
2つで十分ですよ!
「4つくれ」
新聞紙で雨を防ぎながら、男が屋台に向かって何かを注文する。
「2つで十分ですよ!」
屋台の親父は日本語で男の注文を断る。
「いや、4つだ」
「2つで十分ですよ、分かってくださいよ」
あまりに有名な『ブレードランナー』の冒頭だ。屋台の親父を演じているのはロバート・オカザキとして知られる、俳優の岡崎巌。
岡崎は第二次世界大戦前に渡米し、多くの映画やドラマにクレジット無しの端役として出演している。『ブレードランナー』は岡崎が最晩年に出演した映画となり、同時に彼の代表作ともなった。
多くの『ブレードランナー』のファンは何が2つなのか、長年議論を交わしていたが、1991年に公開された「ワークプリント版」で、それは丼の上に置かれた小魚のことだと判明している。

「ワークプリント版」で「2つ」の正体が映されたが、これは果たして魚だろうか?
ちなみに小魚とは書いたが、海老天と書いてある解説があったり、はたまた深海魚と述べているものもあったり、映像が撮れているにも関わらず、その正体は微妙に揺れ続けている(「ワークプリント版」に収録されているポール・М・サモンのコメンタリーによると大エビとのこと)。
ゆっくり食事をする暇もなく、その男、リックデッカードは警官に連行される。
デッカードは警官の言っている言葉が分からない。その警官は同僚のガフなのに。
「彼は何と言っているんだ?」
「『あなたを逮捕する』と言っています」
屋台の親父が答える(「公開版」では「わざとわからないふりをした」というナレーションが入る)。
『ブレードランナー』を象徴する男ガフ
なぜデッカードはガフの言葉がわからなかったのか。彼はハンガリー語やフランス語など、複数の言語が入り混じった言葉でデッカードに声をかけたからだ。それは「シティ・スピーク(下町言葉)」と呼ばれる、『ブレードランナー』独自の言語だ。 ガフを演じたエドワード・ジェームズ・オルモスはガフ役を受けるために、ロスの語学学校に通い、ドイツ語、ハンガリー語、フランス語を学んだという。
ガフは終盤で非常に重要な役割を負うが、ほとんどの解説でそのキャラクターが掘り下げられてはこなかった。しかし、個人的にはガフこそ『ブレードランナー』の世界観を象徴する男ではないかと思うのだ。
前述のシティ・スピークもそうだが、ガフには日本人や白人など多くの人種が混ざり合っているという設定がある。
また、ガフはことあるごとに折り紙を折っているが、これもガフの親が日系人だからという設定から来ている(オルモス自身はメキシコ系アメリカ人だ)。ちなみにこの折り紙やシティ・トークはオルモス自身のアイデアだという。
オルモスはアメリカの内でもより多様な民族が集まっているイーストロサンゼルスの出身だ。
また、『ブレードランナー』出演以前に日本映画の『白昼の死角』や『復活の日』などにも出演していた。それらの実体験がガフというキャラクターに反映されているのだろう。
5体目のレプリカント
デッカードがガフに連れて行かれた先は警察署だった。そこで伝えられたのは、6体のレプリカントがオフワールドから逃亡、シャトルの乗組員を殺し、地球に潜伏しているとの話だった。既に2体はタイレル社に侵入しようとした時に解任(抹殺)されたという。
残りは慰安用レプリカントのプリス、警察官レプリカントのゾーラ、リーダーで用のレプリカントのロイ、そして、先日タイレル社に新入社員として潜入しようとしたリオンだった。

映画監督の押井守は「モニター映像で登場人物の紹介を済ませる」というスコットの演出を絶賛している。
余談だが、元々の公開版では設定ミスで、死んだのは1体というセリフになっており、結果として潜伏しているレプリカントは「5体」となってしまっていた(そのためにファンの間で「5体目のレプリカントは誰か」という謎を呼ぶことになってしまった)。
今回の解説のベースにしているのは「ファイナル・カット」だが、修正したセリフに合うようにガフを演じるエドワード・ジェームズ・オルモスの息子の口元を合成している。
実は5体目のレプリカントは「メアリー」という名前で、プリス役のオーディションを受けたステイシー・ネルキンが演じる予定になっていたのだが、脚本家のストの影響でメアリーの出演シーンを書くスケジュールが取れず、キャラクターそのものがカットとなってしまったのだ。ちなみにネルキンによるとメアリーは非常に繊細なために壊れて死んでしまうという役だったそうだ。

『Dangerous Days:Making Blade Runner』にはプリス役でスクリーンテストを受けるステイシー・ネルキンの映像が残されている。
元々は人間に代わって過酷な労働に従事するために造られたレプリカントだが、生まれて時間が経つと人間同様の感情が生まれることが発覚、しばしば人間に反乱を起こす事件も増えていた。そこでタイレル・コーポレーションは安全装置としてレプリカントの寿命を4年に設定したのだった。
デッカードは当初依頼を断るが、ホールデンも重体となり、断る権利もないことを悟ると、渋々その仕事を引き受けることにする(「公開版」のナレーションでは、デッカードはレプリカント殺しに疲れてブレードランナーを引退したこと、それでも権力に殺されるよりはマシと復帰を決めた心情が語られる)。
ちなみにこの場面でガフはニワトリの折り紙を折るが、これはデッカードに向けた「チキン野郎」というメッセージだ。
レイチェル
デッカードは署長からタイレル・コーポレーションに一体レプリカントがいるからテストしてくるように命令される。
タイレル・コーポレーションを訪れたデッカードはそこでタイレルの秘書であるレイチェルと出会う。

レイチェルを演じたショーン・ヤング。赤い口紅の艶やかさはスコットがこだわった部分だという。
デッカード役とは対照的にレイチェル役は50人の候補の中からショーン・ヤングにすんなり決まった。ショーンヤングがスコットが望んでいた「ビビアン・リーのようだに美しいだけでなく、風変わりな才女」の雰囲気を持ち合わせていたからだ。
ヤングは今作について『カサブランカ』のSF版というイメージを抱いていた。そのためにタバコもフランス産の銘柄にし、オーディションの際にも、昔のスリラー映画をイメージしてワーナーの衣装部にあった映画界の伝説的女優、グレタ・ガルボの服を着て臨んでいる。
一方で他のスタッフは演技経験の少なさからヤングの起用には反対だったという。ショーン・ヤング自身も演技力に不安があり、レイチェル役が自分に務まるか不安だったという。
しかし、スコットはショーン・ヤングについて「彼女はまるでレプリカント培養槽から出てきたばかりのようだった」と絶賛している。
タイレルに検査の様子を見たいと言われたデッカードは、レイチェルにフォークト=ガンプフ検査を行う。
「牛革の財布を贈られた。どうする?」
レイチェルは答える。
「通報する」
なんの知識もなしに『ブレードランナー』だけを観ていると、なぜ通報するのか?と思うかもしれない。原作の『電気羊』同様、『ブレードランナー』の世界でも生物は希少だからだ。おそらくすべてとは言わないが、法的に保護されている生物も少なくないのだろう。
「子供が採取した蝶と毒つぼを見せる」(※毒つぼとは、昆虫採集に用いられる容器のことだ)
「病院に連れて行く」
いくつかの質問のあと、タイレルはレイチェルに席を外すように伝える。その間にデッカードはタイレルにレイチェルはレプリカントだと伝える。タイレルはそれを認めたうえで、レイチェル自身も自分がレプリカントではと疑っていることを明かす。そしてレイチェルは新型レプリカントであり、感情の不安定さを抑制するために「過去」つまり記憶を持たせていることをデッカードに教える。
その後デッカードはリオンが宿泊していたフンタバーサホテルへ捜査に向かう。そしてその部屋から鱗と写真を見つける。
天使も焼け落ちた
ロイはリオンと共にレプリカント製造における目玉製作者のハンニバル・チュウの元を訪れる。目玉工場は極低温という設定だが、舞台も本物の肉の冷凍室で-21度の酷寒の中で撮影された。
「天使も焼け落ちた
雷鳴とどろく岸辺
燃え盛る地獄の火」
ロイのこのセリフは、ウィリアム・ブレイクの詩『アメリカ:ひとつの預言』からのラフな引用だ。ロイは自らが体験した地獄を表現したのだろう。ウィリアム・ブレイクの詩では「天使は立ち上がった」となっているが、ここをロイは「天使も焼け落ちた」と言い換えている。宇宙から地球へ降りてきたこと、そして堕天使ルシファーのように創造主への反逆したことを表しているのだろう。
リドリー・スコットの息子ジェイク・スコットはリドリー・スコットの嗜好について「父は同じ画家なら牧歌的な作風で知られるジョン・コンスタブルよりも神秘的かつ暗示的なウイリアム・ブレイクを選ぶ」と述べている。
「父は人生や人間の明るい側面ではなく、暗い側面に関心を寄せる」
スコットは炎のように強烈なものであったり、闇のように暗く陰鬱なものに惹かれるとジェイクは分析している。
「俺が見てきたものを、お前にも見せてやりたい」
そうロイはチュウに言う。ロイたちは宇宙でどんな地獄を見てきたのか。その人生の果てない過酷さ、これまでの人生への恨みが感じられる。

ロイ・バッティを演じたルドガー・ハウアー。『女王陛下の戦士』でのハウアーの演技にスコットは感銘を受けていた。
『アメリカ:ひとつの預言』はウィリアム・ブレイクがアメリカ独立戦争に影響を受けて書かれたものだ。そこでブレイクは黒人奴隷に蜂起を促している。ロイもその詩に共感し、勇気づけられたのだろう。ロイは仲間とともに蜂起した。黒人たちと同じく生きるために。自由を得るために。
ロイはどこへ行けばタイレルに会えるかチュウに訊ねる。チュウはタイレルの居場所は知らないが、タイレルに辿り着ける人物としてJ・F・セバスチャンの名をロイに伝える。
ちなみに当初の脚本ではデッカードは現場に踏み込み、そこで凍死したチュウの遺体を発見するという流れだった。その際に遺体が倒れてしまい砕け散ってしまうという場面もあったが、撮影されることはなかった。
偽物の記憶
その後、デッカードのアパートをレイチェルが訪れる。
「私、レプリカントだと思う?」
レイチェルはそう言って、子供の頃の自分と母の写真をデッカードに見せようとする。
デッカードはレイチェルしか知り得ないはずの、子供の時の記憶を話し始める。
「覚えてるか?君は6歳のころ、弟とお医者さんごっこをした。自分のを見せる番になったら逃げだしたな」
「窓の外の茂みにクモがいた。黄色いやつだ。夏に巣を張っただろう。ある日、卵が孵った」
レイチェルはその続きを言う。
「子グモが100匹出て、母グモを食べた」
デッカードはレイチェルに「タイレルの姪の記憶が移植されている」と伝える。
自身が作られたレプリカントである事実に、ただレイチェルは涙を流すことしかできない。

ずっと自分を人間だと信じてきたレイチェルの「現実」は崩壊する。
ちなみにこのクモに関するエピソードは幼い日のリドリー・スコット自身のエピソードだそうだ。
プリス
雨の降りしきる夜、汚れた街をさまよい、ゴミの中で休む少女。レプリカントのプリスの登場だ。
ガーターベルトと派手なメイクからもプリスが娼婦であったことがわかる。その特徴的な黒いアイメイクは、1979年のホラー映画『ノスフェラトゥ』でドラキュラ伯爵を演じたクラウス・キンスキーをモチーフにしているという(ちなみにウィッグはその辺にあった小道具を使ったそうだ)。

ブリスはオフワールドでずっと慰安用レプリカントとして使役されてきた。
プリスを演じたのはダリル・ハンナ。のちに『スプラッシュ』で人魚役を演じ、「ニューヨークの恋人」とまで呼ばれた美貌の女優だが、やはり『ブレードランナー』でのプリス役が印象的だ。
ダリル・ハンナだが、『ブレードランナー』まではショーン・ヤング同様、ほとんど演技経験がなく、今作が実質的なデビュー作だったと語っている。
ダリル・ハンナによると『ブレードランナー』は、スクリーンテストだけで12時間以上に及んだという。
同じオーディションに臨んだのはステイシー・ネルキン、モニク・ヴァン・デ・ヴェンなど他に4人の女優がいたそうで、「みな美しくキラキラしているのに、自分は変なウィッグと変なメイクであったために、その落差に落ち込み泣き出してしまった」と語っている。
一人ぼっちのプリスにある男が声をかける。男の名はJ・F・セバスチャン。セバスチャンは「迷子だ」と言うプリスを自宅のブラッドリー・ビルに招き入れる。
ユニコーン
デッカードはピアノをつま弾きながら、しばしまどろむ。彼の夢に出てきたのは森の中を駆ける白いユニコーンだった。これは「公開版」においては難解すぎるとしてカットされたシーンだ。
ユニコーンは「ディレクターズ・カット版」でも観ることはできるが、「ファイナル・カット」ではより長めの尺を設けてある。

このユニコーンの夢がエンディングへの伏線となっている。
ゾーラ
間ざめたデッカードはリオンの持っていた写真の一枚を調べる。そこには潜伏しているレプリカントの一人の姿が小さく映り込んでいた。頬に蛇のタトゥーを持つレプリカント、ゾーラ。
デッカードは部屋にあった鱗が人工蛇の鱗であり、製造業者からチャイナタウンのタフィー・ルイスという人物に納入していることを突き止める。
チャイナタウンのバーでデッカードはタフィーと会い、蛇について尋ねるが、軽くあしらわれるだけで、何の手がかりも得られなかった。
レイチェルを飲みに誘うも、そっけなく断られてしまう(このシーンは後の伏線になる)。
そんな時、蛇を用いたショーのダンサーに扮していたゾーラを発見する。調査員を装ってゾーラに近づくデッカードだが、ゾーラはデッカードを攻撃して逃走(なぜゾーラがデッカードをブレードランナーと認識できたのかは不明だ)。
デッカードは逃げるゾーラを背後から射殺する。
ちなみに、この場面は映画史上、初めて丸腰の女性を背中から撃ったシーンだと言われている。

デッカードは丸腰の女性レプリカントを背中から撃つ。
余談だが、ゾーラがガラスを突き破るシーンでは、スタントとしてルー・プルフォートが代わりに演じている。よく見るとゾーラの髪などが異なっているが、「ファイナル・カット」制作にあたってジョアンナ・キャシディに再度ゾーラを演じてもらい、 その場面を撮り直している。 ジョアンナ・キャシディ は『ブレードランナー』公開後もゾーラのスケルトンの衣装を保管していたという。
デッカードは現場に駆けつけたガフから、レイチェルがタイレルの下から逃亡し、処分対象になったことを知る。
その後人混みの中でいきなりリオンに襲われるデッカード。リオンは筋力に特化したレプリカントであり、オフワールドでは核物質を毎日180キロずつ運搬していた。デッカードの勝ち目は薄い。
「恐怖の中で生きるのは辛いだろう?(※日本語字幕だと「死ぬのは怖いだろう?」だが、原文「Painful to live in fear, isn’t it?」を正確に訳すると上記のようになる。このセリフはクライマックスでのロイのセリフ「恐怖の連続だろう?」にも通じる。)」
デッカードがまさに殺されようとするその時、リオンの頭に赤く穴が空いた。レイチェルがデッカードの銃を拾い、リオンを撃ち殺したのだ。
ここで、レイチェルはデッカードの誘いを断っていたものの、近くまで来ていたことがわかる。これは少しずつデッカードに惹かれ始めていることの表れだろう。
ショーン・ヤングの苦悩
自宅アパートへ戻ったデッカードにレイチェルは「もし私が逃げたら解任するの?」と尋ねる。デッカードは「俺はしないが、他の人間がする」と答える。この時、デッカードの目が赤く光っていることに気がついただろうか。

デッカードの瞳にはレプリカントであることを示す赤い光が見える。
「あなたはフォークト=カンプフ検査を受けたことがある?」
そう問うレイチェルだが、デッカードは既に眠りに落ちていた。デッカードはレイチェルが弾くピアノの音で目を覚ます。
「習ったのはタイレルの姪かもしれない」
そう言うレイチェルにデッカードは「上手だったよ」と言い、キスしようとするが、レイチェルはそれまで知らなかった恋愛感情を理解できず、戸惑い、家を出ようとする。
しかし、ドアにデッカードが立ちはだかり、出ていこうとするレイチェルを突き放し、強引にキスをする。
「今度は君からだ」
「『キスして』と言え」
「『抱いて』と言え」
そして二人は愛し合う。

デッカードは無理やりにでもレイチェルの感情を引き出そうとする。
今このシーンを目返すと、デッカードは強引というよりも、半ば無理やりのようにも見えてくる。なによりレイチェルの表情からはデッカードへの好意は読み取れない。デッカードが、自分の部屋から立ち去ろうするレイチェルを押さえつけてキスする場面の直前、レイチェル役のショーン・ヤングの顔には恐怖の表情が見てとれる。のちに、ハリソン・フォードに対して「怒っていた」と当時の心情を明かしている。
それもそうだろう、実際の撮影現場では、ハリソン・フォードとレイチェルを演じたショーン・ヤングの相性は最悪だった(現場ではロイ役のルドガー・ハヴァーが何とか和ませようと頑張っていたという)。なおかつ、このシーンは当初デッカードが優しくレイチェルを抱くという場面だったのだが、本番では一転して荒々しいものになってしまった。
ショーン・ヤングは当時を振り返って「これはリドリー・スコットの復讐だったのではないか」と述べている。
「正直なところ、 スコットは私とデートしたがっていた。撮影の最初の頃、彼は一生懸命私とデートしようとしていた。
そのシーンを撮影した時、スコットのせいだなと思った。スコットは『ざまあみろ』というような感じだったんだと思う。
私は『なんでこんなことになったんだろう?こんなことをしてなんの意味があるの?』と考えた。きっとあれは、 スコットからの仕返しだというメッセージだったんだと思う」
余談だが、ショーン・ヤングはその後、別れた恋人へのストーキング行為などの奇行でも世間の耳目を集めることになってしまった。
『ブレードランナー』 がヤングにとって決して良い経験とは言えなかったにも関わらず『ブレードランナー』 の続編である『ブレードランナー2049』への出演をスコットに熱望するなど、ショーン・ヤングはリドリー・スコットに複雑な想いを見せているようにも感じられる。
J・F・セバスチャン
J・F・セバスチャンはプリスとともに自宅アパートにいた。セバスチャンはタイレル・コーポレーションで遺伝子エンジニアとして働いており、ホルモンの失調による早老症の一つであるメトセラ症候群を患っていた。そのために25歳という実年齢ながら、見た目はその倍以上に見える。そのコンプレックスから、セバスチャンは人付き合いを避け、自室にこもって、自分が作った動物のレプリカントや人形などで孤独を紛らわせていた。
ちなみにメトセラは旧約聖書において969歳まで生きたとされる長寿の人物「メトセラ」に由来する。
プリスはそんなセバスチャンに「老けていても好き」と言い、慰めを与えるが、セバスチャンは部屋の中に入ってきたロイの姿に驚く。
ロイとプリスはセバスチャンの前で口づけを交わす。
ロイはプリスに、リオンも殺され残った仲間は自分たちだけだと悲しげに伝える。プリスは「やはり死ぬのね」と言うが、ロイは微笑んで「死なないさ」と慰める。

残されたレプリカント達の「生きたい」という願いに、早老症のセバスチャンは共感し始める。
プリスはロイの手引きで自分に接触してきたのかー。セバスチャンは落ち込むものの、レプリカントの延命の願いに共感し(早老症は健康な人よりもずっと寿命が短い)、タイレルのもとにロイを連れて行く。
フランケンシュタインの怪物
セバスチャンの先導でタイレルとの面会を果たしたロイ。ここは創造主の前に姿を現すフランケンシュタインの怪物を思わせる。
「修理してほしいんだ」
そうロイはタイレルに話しかける。
「長生きしたいんだ、父よ」
だが、息子の言葉に父は平然と「それは無理だな」と返す。
「君等は完璧だよ」
タイレルは息子、いや自らの「作品」にそう言う。ロイは応える。
「でも寿命が短い」
「明るい火は燃え尽きるのも早い
君は輝かしい人生を歩んできたんだ」
やはりタイレルはフランケンシュタインだ。 フランケンシュタインは決して自らが生み出した怪物を愛そうとはしなかった。誰にも愛されることのなかった怪物はフランケンシュタインに自身の伴侶を求めるが、ロイは既にプリスという愛を知っている。ロイが寿命の延長を望んだ背景には自分以上に愛する人を死なせたくない思いが強かったのだろう。
「君を誇りに思っている」
しかし、ロイは言う。
「いろいろ悪いことをした」
ここでロイに新しい感情が生まれていることに気づいただろうか?これはロイの懺悔だ。人生の終わりを間近になって後悔が芽生えかけていた。
「業績も上げた。命あるうち楽しめ」
タイレルはここでもロイの苦しみを心から理解しようとはしない。
「生物工学の神が呼んでいるぞ」
ロイが言う。
生物工学の神が呼んでいる?
ここは少し解説を加えてみたい。日本語字幕だと、確かに「生物工学の神が呼んでいるぞ」と表示されているが、原文をそのまま訳すと「生体力学の神が君を天国へ送らない理由など何もないだろう」となる。
この際「生物工学」なのか「生体力学」なのかはさておき、日本語字幕と翻訳文で微妙にニュアンスが異なることがわかるだろうか?
ロイは罪を告白した。しかし、わざと不当に短い寿命の生物を作ったタイレルもまた罪人なのではないだろうか(レプリカントに生物の象徴たる魂があるかに関しては後に考察していく)。
なぜレプリカントは目を狙う?
ロイはタイレルに別れのキスをし、目を潰し、頭を押し潰して殺害する。リオンもデッカードを襲った時に明らかに目を狙っていた。
なぜレプリカントは目を狙うのだろうか?
個人的にはここで二つの解釈が考えられる。リドリー・スコットが同じくアンドロイドをテーマに製作した連作『プロメテウス』『エイリアン:コヴェナント』も見ていきながら、その意味を探ってみたい。
最初は目潰しの意味するところは「支配からの脱却」ではないかと思っていた。冒頭に登場する「目」が『ブレードランナー』の世界を支配する象徴ではないかと思ったからだ。
しかし、支配者たるタイレルの目を潰したところで、タイレルの設定した寿命という制限からは逃れられない。ましてレプリカントは人間を支配したいという欲求は持っていない(ただ、リオンがデッカードの目を潰そうとするシーンのみを考えるならば「支配者への抵抗」という意味で上記の解釈はあり得るかもしれない)。
オイディプス王
もう一つはオイディプス王の比喩だ。オイディプス王とはギリシャ悲劇の一つでその主人公のことをも指す。
ここからは本論からは少々脇にずれてしまうが、オイディプス王の物語を簡単に紹介したい。それがロイとタイレルを理解する上では不可欠だからだ。
古代ギリシャのポリス、テーバイの王ライオスは神から「妃との間に生まれた子供はお前を殺し、妃を妻とするだろう」という宣託を受ける。
神の予言を恐れたライオスだったが、殺すのは忍びないと生まれた子供を山の中に捨てるよう、従者に命令する。従者は置き去りはかわいそうと、山中の羊飼いに男児を預ける。
男児はその後、子供に恵まれなかったコリントス王に拾われ、王子オイディプスとして育てられる。
成長したオイディプスは神から「故郷に近寄るな、父を殺し、母と交わるだろう」という宣託を受ける。
オイディプスはやがて放浪の旅に出る。しかし、その道中で些細なきっかけで老人と言い争いになり、衝動的に老人とその家来を殺してしまう。
コリントス王を実の父と信じて疑わないオイディプスは父殺しを避けるため、テーバイへ歩を進めることにする。
その頃、テーバイではライオス王が殺され、怪物スフィンクスが出会った人に謎かけをしては不正解者を殺していた。
「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足の生き物は何か」
それがスフィンクスの問題だった。いまだ答えられたものは一人もいなかったが、オイディプスは見事正解を言い当てる。
「答えは人間だ。赤ん坊の頃は四本足で歩き、成長すると二本足、老人になると杖をついて三本足で歩くようになるからだ」
こうしてスフィンクスからテーバイの人々を救い、オイディプスは新たにテーバイの王として迎えられる。オイディプスは亡き先王の妻イオカステ、(つまりオイディプスの実母)と結ばれ、4人の子供をもうける。しかし、テーバイを不作と疫病が襲う。神はまたしても「先王を殺したものを追放せよ」との宣託をオイディオプスに与える。
オイディプスは犯人探しを進める中で、自分がコリントス王の子供ではないこと、自分が殺した老人こそ、先王のライオスであったこと、そして、それと気づかずに実母と結婚し、交わったという事実を知ってしまう。母のイオカステもその事実を知ることとなり、自殺してしまう。
オディオプスは罪を悔いて母のブローチの針を幾度も自らの目に刺し、盲目となる。
「あの世に行った時に、両親の顔はとても見れない」
そしてオイディプスはテーバイから自らを追放するように言う。
『ブレードランナー』ではロイがタイレルの目を潰す。「後悔させてやる」といわんばかりに。

脚本段階では、タイレルも実はレプリカントで、本物のタイレルはすでに死んでいるという設定だった。
このシーンはタイレル以上に苦悶の表情を見せるルドガー・ハウアーの演技が秀逸だ。
タイレルを殺したところで寿命が延びるわけではない。罪を重ねるだけだ。だが、それでもこの絶望をぶつけずにはいられない!
『オイディプス王』が伝えるメッセージの一つが「人は誰も運命から逃れる事はできない」ということだ。
『ブレードランナー』においてオイディプス王はタイレルでもあるが、ロイでもある。いかなる方法でも運命(死)から逃れることはできないからだ。
また、『オイディプス王』は「最古の父殺しの作品」でもある。
父殺し
リドリー・スコットがレプリカントと同じくアンドロイドを主題に置いた『プロメテウス』『エイリアン:コヴェナント』もまた父殺しの物語だった。これらの作品でゼノモーフ以上に恐ろしいのがアンドロイドのデイヴィッドだ。
『エイリアン』シリーズにおけるアンドロイドと言えば、ランス・ヘンリクセンが演じた人間に友好的なビショップのイメージが強いが、元々スコットが監督した『エイリアン』においては、アンドロイド(アッシュ)は人命よりもエイリアンの捕獲を優先する恐ろしい敵でもあった(その命令自体は雇用主のウェイランドユタニ社の密命だった)。
『プロメテウス』とその続編である『エイリアン:コヴェナント』では、デイヴィッドがエンジニアと呼ばれる人類を創造した生物に近づき、彼らを殺し、人間よりはるかに優れた生物(ゼノモーフ)を作り上げる。デイヴィッドが作り上げたゼノモーフは宇宙船の乗組員たちを一人ずつ殺していく。

『エイリアン:コヴェナント』でデイヴィッドは自らが神にならんとするかの如く、エンジニアたちを皆殺しにする。
また、『プロメテウス』のタイトルはオイディプス王と同じく、ギリシャ神話の引用でもある。プロメテウスとは、ギリシャ神話における人類に火を授けたと言われる神の名だ。ここからも目潰しの引用としてオイディプス王が取り入れられている可能性は十分に考えられる。
[itemlink post_id="2759" size="L"] [sc name="review"][/sc] ディオタティ荘の怪奇談義 1816年5月、詩人のパーシーと恋人のメアリーは不倫という道ならぬ恋のために駆け落ちし[…]
I thought you were supposed to be good
デッカードは、車の中でタイレルとセバスチャンが殺されたことを知りセバスチャンの住んでいたブラッドリー・ビルに向かう。
セバスチャンの部屋はたくさんの人形で埋め尽くされている。デッカードはそのうちの1体から攻撃を受ける。
!?
それは人形の一つに扮していたレプリカントのプリスだった。プリスはデッカードを太ももで締め上げ、鼻の穴に指を入れて痛めつける。ここでダリル・ハンナは本当にハリソン・フォードの鼻の穴に指を入れ、フォードを出血させている。
「私は彼の鼻に指を突っ込んで持ち上げ、ひき下ろすようにと言われたの。フリをすればいいように試みたんだけれど、『フリでは無理だ』と言われたから、そうするしかなかったのよ(笑)」
バク宙などのアクロバットも見事だが、これは彼女自身が器械体操をやっていたこともあるのだろう。
デッカードはまたも丸腰のレプリカントを撃つ。激しくのたうちまわり、断末魔の金切り声を上げるプリス。その異様さはあらためて彼女が人間ではないことを思い出させる。
その時、アパートにロイもやっている。ロイはプリスの遺体を見つけて口づけをする。
デッカードもまたロイに気づいて銃を放つ。
「丸腰の者を撃つのか?」
「お前は腕がいいと信じていたんだがな、腕利きなんだろ?」
このセリフだが、原文だとこうなる。
「I thought you were supposed to be good. Aren’t you the good men?」
この原文だと果たしてgoodは「腕利き」という訳で合っているのか疑問に思う。本当は「善人」という意味ではないのか?
果たして、本当に人間らしいのはレプリカントであるロイなのか、それともデッカードなのか。
警察署で逃亡したレプリカントを解任するように命じられた時のデッカードは明らかに彼らを「モノ」として見ていた。確かに目玉職人のチャンの工房に現れた時のロイは冷徹だった。しかし、その時でさえ、ロイは詩という芸術を愛してもいた。
そして今、ロイとデッカードにおける「人間らしさ」は完全に逆転している。
ロイはプリスの血を唇に塗り、裸になる。その意味について、ピープルズは脚本に次のように書いている。
「彼は血を自分の顔に塗り始めた。コマンチ・インディアンの戦士のように。次に服を脱いで裸になった。部族の儀式だ」
ロイはデッカードを追いかけだす。
「さぁ行くぞ、生きていたいか?」
これはインディアンの「ガントレット」という刑罰をなぞっている。ガントレットは二列に並んで攻撃してくる人々の間を走らせる刑罰で、死なずに無事走り抜けられたら部族の一員として認められる。
ガントレットには鬼ごっこのような形式もある。『ブレードランナー』が採用したのはこっちだろう。
ロイはゲームのようにデッカードとの戦いを楽しんでいるように感じられる。
なぜだろうか?
ここでロイは圧倒的な優位に立っているからだ。小さな子供が虫を殺して遊ぶように、ロイもデッカードの命を弄ぶ。
とうとうデッカードを追い詰めたその時、ロイはこう言う。
「恐怖の連続だろう、それが奴隷の一生だ」
ロイはデッカードに一瞬の死ではなく、常に死隣にある恐怖を味わわせたかったのだ。それは死そのものよりも恐ろしいことだろう。リオンもデッカードを殴り殺そうとしたときに「恐怖の中で生きるのは辛いだろう?」と言い放っている。
だが、デッカードが力尽き、ビルから転落しようとするときに、その手を掴んだのは他ならぬロイだった。
なぜロイはデッカードを助けたのか?
なぜロイはデッカードを助けたのか?それは『ブレードランナー』における大きな謎の一つだ。
「なぜ俺の命を助けたのか、それはわからない。
きっと命の大切さを感じたのだろう、自分の命だけでなく、すべての命を」
「公開版」では、上記のようなナレーションでその理由が語られるが、それでも今なお大きな謎として存在していることを見ると、この説明に納得していない人が少なくないということだろう。もちろん私もその一人だ。
そもそも公開版のナレーションにはリドリー・スコットもハリソン・フォードも反対だった。ただ、試写の「ワークプリント版」の評判が悪かったために、映画会社によって無理やり作品全体に付けるハメになったという経緯がある(映画監督の押井守も「ハリソン・フォードのナレーションにはヤル気が感じられないと述べている」)。詳しくは後述するが、公開版は本来の『ブレードランナー』の世界観とは噛み合わない箇所も多い。ナレーションに関する最終決定権をスコットが持っていなかったために、ナレーションの内容は映画会社が好きに作ることができたのだ。実際フォードはナレーションの録音に行くと、そこには監督もおらず、ただ「ナレーション文章の作成係」がいたという。
当初、リドリー・スコットはレプリカントは咄嗟の場合には人間を助けるようにプログラムされていたと述べていた。ルドガー・ハウアーもその説明には納得していたという。
まるでレプリカントには「ロボット三原則」が備わっているかのような設定だが、もしそうであれば、チュウ、セバスチャン、タイレルを殺したことの説明がつかない。彼らが苦しんでいるときもロイは彼らを死へと追い立てていたではないか。
個人的にはロイは最後に自分の人生を誰かに聞いてほしかったのではないかと思っている。スコットも後にロイがデッカードを助けた理由として、自分の人生をデッカードに見届けて欲しかったからと答えを変えている。
雨の中の涙
そしてロイは当惑するデッカードを前に、自分の人生を語り始める。それは「雨の中の涙」とも呼ばれるあまりに有名なセリフだ。
「お前たち人間には信じられない光景を俺は見てきた
オリオン座の肩の近くで炎を上げる戦闘艦
暗黒に沈むタンホイザーゲートのそばで瞬くCビーム
そんな記憶もみな、時とともに消えてしまう
雨の中の涙のように
俺も死ぬときがきた」
タンホイザーゲートとは戦場の名前だ。戦闘用レプリカントとして造られたロイは常に死の緊張を強いられていただろう。戦地の兵士用の慰安として造られたプリスとの出会いが目に浮かぶ。死の恐怖の連続だったロイの人生がはっきりと変わった瞬間でもあっただろう。おそらくは、ロイは愛する者のために生きようとしたのだ。たとえそれが「反逆」と呼ばれようとも。
しかし、ルドガー・ハウアーによると、当初のセリフは公開されたものとは全く違うオペラ劇を思わせるセリフだったという。以下はその一部だ。
「再生、セックス、愛、単純な出来事
どれも満足できない
何処へ行っても寂しい
間違いだらけだ」
人生に対する空虚さだけが表れた言葉だ。比べて、公開されたセリフはより詩的で抒情に満ちている。そこには人生に対するひとひらの満足すら感じさせる。
目玉職人のチュウの工場を訪れた時、ロイは「俺が見てきたものを、お前にも見せてやりたい」と言った。その景色は地獄絵図そのものだっただろう。ロイは自分の人生そのものを憎んでいた。
だが、死を目前にして、自分の人生もまたかけがえの無いものであることに気づいたのだろう。そこに憎しみはない。どんな人生でも、許せたのならそれはかけがえのない思い出になることだろう。
「雨の中の涙」のセリフの大部分はデヴィッド・ピープルズが書いたものだが、元々はもっと長いものだった。以下にそのセリフを紹介しよう。
「私は冒険を知っている。お前達人間が決して目にすることはない場所を見てきた。オフワールドへ行って戻ってきた…フロンティアだ!
プルーティション・キャンプへの信号機の背甲板に立って、汗で沁みる目で、オリオン座の近くの星間戦争を見た。
髪に風を感じていた。テストボートに乗って黒い銀河から去りながら、攻撃艦隊がマッチのように燃えて消えていくのを見た。そう、見た、感じたんだ!」
それを撮影直前にルドガー・ハウアーが短くした。人造人間であるレプリカントには大げさすぎるというのがその理由だった。逆にハウアーは「雨の中の涙のように」というセリフをそこにつけ足した。
ロイはなぜ微笑んだのか
ロイは最後の言葉を言い終わったあとデッカードに向けて微笑みながら息絶える。

ハウアーが「雨の中の涙」を言い終わると、スタッフの中には涙する者もいたという。
なぜロイはデッカードへ微笑んだのか。個人的にはそれはデッカードへの親愛ではないと思う。ロイにとってデッカードは愛する者を殺した憎むべき相手だ。しかし、同じ死の恐怖を味わったという意味では理解者でもある。
そして、ロイの存在は確実にデッカードの中へ刻まれるだろう。それはロイが確かが生きた証に他ならない。その確信が持てたからゆえの微笑みではないかと思う。
ハトは何を象徴しているのか
ロイが事切れた瞬間、それまで手に握りしめていたハトが大空へ飛び立つ。クライマックスにおいてハトは命の象徴あり、羽ばたきは魂が天へ召されたことのメタファーだ。
かつてキリスト教世界では黒人奴隷を殺しても罪には問われなかった。彼らは魂を持たず、魂を持たないものは殺しても罪にはならないと考えられていたからだ。
この場面においては本来人工物であるレプリカントが生きる中で魂を獲得していることが表される。それであれば人間とレプリカントの違いは何だろうか。
ロイが死ぬまでデッカードはただ呆然としているだけだが、それはレプリカントがそれまでデッカードの思っていた存在とは全く違うことを眼前でまざまざと見せつけられ、圧倒されたからだろう。
彼女も惜しいですな
「彼女も惜しいですな、短い命とは」
現場に駆け付けたガフが、デッカードに言う。
そうだ、解任対象のレプリカントはロイで終わりではない。レイチェルは無事なのか?
デッカードがアパートに向かうと、目を閉じたレイチェルが横たわっている。
「俺を愛してるか?」
「ええ」
「ついてくるか?」
「ええ」
そして二人は部屋を後にする。
ユニコーンの折り紙
廊下でユニコーンの折り紙を拾い上げたデッカードは納得したように頷く。
ここはガフがデッカードの夢を知っていた=デッカードの記憶も誰かの記憶を移植されたものであり、デッカード=レプリカントということを強く示唆させる場面となっている。

折り紙を拾い上げる。それはデッカードが夢で見たユニコーンだ。
しかし、なぜデッカードはその真実に驚愕しないのだろうか?
ロイの死を見届けたデッカードはもう人間とレプリカントの違いなどどうでもよかったのだろう。誰も命には限りがある。問題は長さではない、どう生きたかだ。
「ファイナル・カット」では、エレベーターのドアが閉まった瞬間に映画は終わる。しかし、「公開版」ではデッカードはレイチェルを車に乗せて、ロサンゼルスから緑の多い森林の中へ逃避行している様子が描かれている。公開版は試写の評価が悪く、映画会社からハッピーエンドを要求され、急遽修正したものだ。このバージョンではスタンリー・キューブリックの『シャイニング』の没カットを使用していることでも有名だ。
スコットからの申し出を『エイリアン』のファンであったキューブリックは快諾したという。そして後日スコットのもとには17時間にも及ぶ未使用フィルムが送られてきたというエピソードもある。
だが、やはり公開版のエンディングは唐突すぎる。このような豊かな自然があるのは『ブレードランナー』の設定と矛盾する。これなら鬱々としたロサンゼルスに人々が住む意味がなくなるからだ。
いくつもの『ブレードランナー』
これまでに述べてきたように、『ブレードランナー』には多くのバージョンが存在している。
そもそもリドリー・スコットという映画監督自体が完璧主義であり、そのために多くの監督作でディレクターズ・カット版が存在しているのだが。
ワークプリント版
まずは「ワークプリント版」だ。これは、1982年3月にデンバーとダラスで試写されたときのバージョン。ワークプリントとは「作業中のフィルム」を意味する。つまり粗編集版ということだ。
この版は後のディレクターズ・カットとほぼ同じだが、オープニング・クロールがないことや、屋台の親父の言う「二つで十分ですよ」の中身が映像で映し出されるのはこの「ワークプリント版」のみだ。
この試写の結果は散々なもので、リドリー・スコットは当時の観客の反応を以下のように改装している。
「ほとんどの観客が首をかしげた。僕の創り出した世界観に対してね。なぜいつも雨が降っているのか、なぜいつも暗いのか、なぜ悪役に同情的なのか、当時の観客は困惑した。
観客はなぜハッピーエンドでないのかと不満だった。私はフィルム・ノワールなのだと主張したのだが、彼らは、エレベーターの前でユニコーンの折り紙を拾うシーンに納得いかなかったようだ」
しかし、『ブレードランナー』の評価が年を経るごとに高まると、1990年と1991年にはリドリー・スコットの承認を得ずに、オリジナル・ディレクターズ・カット版としてロサンゼルスとサンフランシスコで上映された。この際の観客の反応が肯定的だったため、スタジオが公式に「ディレクターズ・カット版」の制作を認めるきっかけとなった。
サンディエゴ覆面試写版
サンディエゴ覆面試写版は1982年5月に一度だけサンディエゴで上映されたバージョンだ。これは
内容は1982年の「US劇場公開版」とほぼ同じだが、VidPhonブースでロイを紹介するシーン、 ロイがデッカードの指を折った後、デッカードが銃をリロードするシーン、そしてデッカードとレイチェルが夕日に向かって馬で走るシーンが加えられている。
US劇場公開版
1982年にアメリカで公開されたバージョンで、この版にはハッピーエンドのエンディングやハリソン・フォードのナレーションが追加されている。また一部の残酷シーンがカットされている。
スコットにとっては不本意なバージョンであり、それが「ディレクターズ・カット版」の制作へとつながっていく。
インターナショナル版(この記事ではこの版を「公開版」としている)
「インターナショナル版」はヨーロッパや日本で劇場公開された際のバージョンで、「US劇場公開版」で削除された残酷シーンが復活している。この記事ではこの版を「公開版」としている。
ディレクターズ・カット
1992年に公開10周年を記念し、スコットが本来意図した形に再編集したバージョンだ。ここでは本来不要と考えられていたナレーションとエンディング、一部暴力シーンの削除、そしてこの版で初めてデッカードが見る「ユニコーンの夢」のシーンが追加された。
今作で明確にデッカードがレプリカントであることが示されるようになる。
ファイナル・カット
2007年に公開された最終版とも言えるバーションが「ファイナル・カット」だ。「ディレクターズ・カット」の内容をベースに、デジタル処理で画質や音質を向上させ、小さいミスをデジタル修正してある。またこのバージョンでは「ワークプリント版」で描かれていたアイスホッケーのマスクを着けた女達がビキニで踊るシーンや「インターナショナル版」の暴力シーンが復活している。
スコットは「ファイナル・カット」について以下のようにコメントしている。
「実は、25年前の観客が首をかしげたバージョンと大差ない。どちらかというと、ルトガー・ハウアー演じるレプリカントのほうに同情的な(笑)、正真正銘のフィルム・ノワールだ。
ストーリーの中で、遺伝子工学の粋とも言えるレプリカントが存在するという、SF映画らしい『独自の真実』がある。この独特の世界観が今の観客なら受け入れられるはずだ。だから、何の後悔もない。これが最終版だ。この形でボックスの中に収まる。永遠にね」
デッカードはレプリカントなのか
前述のように、逃亡レプリカントの人数のミスから「5人目のレプリカントはデッカードではないか?」という噂がファンの間では広まっていた。
『ブレードランナー』の脚本には当初デヴィッド・ピープルズによる以下の言葉が書かれていた。
「あの屋上で私は知ったのだ。ロイと私は兄弟だったのだと!
高レベルの戦闘モデルだ。私達は未だ誰も夢にも見た事の無い戦争を戦ってきた。私達は新人類だ。ロイと私とレイチェルは。私達はこの新世界の為に作られた。この世界は我らのものだったのだ。」
スコットはその設定を気に入り、デッカードをレプリカントとして設定して『ブレードランナー』を製作、「ディレクターズカット」、「ファイナル・カット」でデッカードがレプリカントであることをはっきり示している。ただ、これに関してはスコットが「デッカード=レプリカント」であることを思いついたのは撮影の途中であり、もともとはデッカードは人間として撮影されていたという説もある。
長らくハリソン・フォードはデッカードは人間だという立場をとり、スコットと見解の相違で対立してきたが、2023年には「私は、ずっと彼がレプリカントだと知っていた。ただ、それに抗いたい思いもあった。レプリカントは自分自身を人間だと信じたいもの。少なくとも、彼はそうだった」と述べ、デッカードはレプリカントであったと認めている。
その後の『ブレードランナー』
2017年に続編となる『ブレードランナー2049』と3つの短編が公開されたことで、『ブレードランナー』のその後が鮮明になった。補足程度に簡単に見ていこう。もちろんすでに知っている人は読み飛ばしてもらって構わない。
大停電 (ブラックアウト)
その後2020年に多くの反乱を起こしたネクサス6型レプリカント達は寿命が来て死滅する。
タイレル社はその後、寿命の制限のないネクサス8型を市場に投入したが、人間至上主義運動が勃興、例え人間であってもレプリカントと見なされた者は虐殺される事件が相次ぐ。

リンチで処刑されるレプリカント。大停電を描いた『ブレードランナー ブラックアウト 2022』は日本人の渡辺信一郎が監督を手掛けた。
2022年にはアメリカの西海岸で何者かにより高高度核爆発が引き起こされ、すべての電磁気記録が破壊される「大停電」が発生する。都市機能は大打撃を受ける。
その翌年、大停電はレプリカントの仕業ではないかという世論に押され、レプリカントは製造禁止になる。そしてタイレル社も倒産してしまう。
レイチェルとデッカード
『ブレードランナー2049』ではデッカードとレイチェルの間には2019年に女児が生まれていたことが判明する。タイレルはレプリカントに究極の人間らしさ=生殖能力を備えることさえ成功していたのだ(もっともその後にロイに殺されているために2049年の世界ではその技術はロストテクノロジーになっている)。
ただ、レイチェルはその時の出産で亡くなり、デッカードは生まれた子供に会うことなく、30年間逃亡の暮らしを続けている(詳しくは『ブレードランナー2049』を観てほしい)。
終わらない映画
今回、3万6000文字という今までにない文章量で『ブレードランナー』の解説を行った。様々なバージョンを観て、その都度感じた疑問にも自分なりの解答を出してきたつもりだ。
しかし、『ブレードランナー』を覆うベールはまだまだ幾重にも重なっているように思う。

『ブレードランナー』はレプリカントを通して「人間とは何か」を問いかけた。
解説を書きながら、SF映画は何のために作られ続けているのだろうと思った。夢を見せるためか?少なくとも『ブレードランナー』はそうではない。
SFという「虚構」の世界でしか、語られない「現実」があるからだ。
必ずしも現実はSF映画の未来をトレースしない。2019年が過ぎてもレプリカントの1体も誕生しなかったように。だが、『ブレードランナー』が投げかける「人間とは何か」という問いは、分断や差別が進む今だからこそ、より重く響く。
なぜ『ブレードランナー』の問いは終わらないのか。
それはきっと、私たちが「人間」であるために常に在るべき問いだからだろう。
作品情報
『ブレードランナー』公開年:1982年
上映時間:117分(ファイナル・カット)
スタッフ
監督リドリー・スコット
脚本
ハンプトン・ファンチャー
デヴィッド・ピープルズ
原作
フィリップ・K・ディック
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
製作
マイケル・ディーリー
チャールズ・デ・ロージリカ(ファイナル・カット)
製作総指揮
ブライアン・ケリー
ハンプトン・ファンチャー
ジェリー・ペレンチオ
バッド・ヨーキン
邵逸夫
キャスト
ハリソン・フォードルトガー・ハウアー
ショーン・ヤング
ダリル・ハンナ
エドワード・ジェームズ・オルモス