『容疑者xの献身』「誰も幸せにならない」謎をなぜ湯川は解いたのか?

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※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


愛とは何だろうか。時折そんなことをふと考える。
今週のドラマやバラエティ、最新スマホや芸能ゴシップなどほとんど関心がない。どれも生活や生きることの本質ではないからだろう。
逆に愛は生きることとほぼ同じくらい根元的なものだと思う。恐ろしい事だが、愛情を受けて育てられた赤ちゃんと、愛情を受けずに育てられた赤ちゃんとでは死亡率か異なるという実験結果もあるという。

個人的には愛とは相手のためにどれだけの犠牲を払えるかだと思う。それは相手を許すことであったり、受け入れることもその一つだ。
今回紹介したい『容疑者xの献身』は正に愛の物語だと言っていいだろう。

『容疑者xの献身』

『容疑者xの献身』は2008年に公開されたミステリー映画。監督は西谷弘、主演は福山雅治が務めている。テレビドラマ『ガリレオ』シリーズの映画版第一弾となる。原作は直木賞も受賞した東野圭吾の同名小説。
映画と原作は別物だという意見もあるだろうが、原作小説を読んでおくと映画の登場人物の心情やそれまで見えてこなかった細かい部分までキャラクターを深く理解することができる。

映画の冒頭は大がかりな物理の実験のシーンから始まる。
羽田沖でクルーザーが爆発し、一人の男が亡くなった事件。クルーザーの爆発は事故なのか、それとも故意に引き起こされたものなのか。その検証実験を行っているのは「変人ガリレオ」こと帝都大学の准教授で物理学者の湯川学だ。
「すべての現象には理由がある。」
湯川はそう刑事の内海薫に言う。僅かな事実からも論理的かつ科学的にアプローチし、解明してしまう湯川に内海は悔しさからか、こう口走る。
「科学で証明できないことはさっぱり苦手なくせに」
「そんなものはどこにある」
湯川の答えに内海は「ありますよ」と即答。そして少し黙った後に続けてこう言う。「愛とか」
「たしかにそれは非論理的なものの象徴だ。」そう言って湯川はいくつかの数式を挙げる。
「もし三角形の面積が底辺×高さ÷愛だったら?」「もし円の面積が半径×半径×愛だったら?」
つまり愛なんてものについて考えるのは非論理的だ、そう言いかけた湯川を遮って「もう結構です」と言って内海は捜査に戻っていく。

愛は本当に論理を超えるのか

この冒頭のシーンは映画版のオリジナルだが、今作のテーマを分かりやすく観客に提示してもいる。
昨今のいわゆるメジャーどころの邦画はわかりやすさを重視して行間を考察して埋める楽しみを奪ってしまうが、その分親切ではあるという事だろう。
そう、愛は本当に論理を超えるのか。それが本作『容疑者xの献身』のテーマのひとつだ。

東京のどこか。弁当屋を経営し、慎ましくも穏やかな暮らしを手にしていた花岡靖子・美里の親子だったが、そこに靖子の元夫である富樫が姿を見せたことでその平穏は壊される。
富樫は職にも就かずにフラフラし、以前から靖子に金の無心やDVを行っていた。富樫は靖子の引っ越し先を突き止め、またも金を要求しに来たのだ。富樫の暴力に耐えきれなくなった靖子と美里はやむを得ず富樫を殺害する。
その物音にたまらず様子を聞きにきたのは隣人の数学教師、石神哲也だった。
靖子はゴキブリが出て大騒ぎしただけとその場を取り繕うが、石神はすぐに花岡親子がやってしまったことを見破り、隠蔽工作と事後処理を請け負う。
石神の予想通り、警察は富樫殺害の容疑者としてかつての妻である靖子を疑うが、石神の指示に忠実に振る舞っていた靖子たちに対して警察も決定打を掴めずにいた。
刑事の草薙は同期の物理学者である湯川学に容疑者の隣人の石神が同じ帝都大学のOBであることを話す。
湯川は久々に石神の元を訪れ、旧交を温める。そして土産がわりに持ってきたリーマン予想の反証の検証を依頼する。僅か六時間で検証を終わらせた石神に湯川は改めて天才は健在であることを実感するのだった。
だが、湯川の登場によって石神の描いていた完璧な数式は少しずつ狂い出していく。

石神にとっての最適解

石神が仕掛けたトリックの仕組みを説明するのはここでは割愛しておこう。
そして湯川は石神に事件の全容を見抜いていることをそれとなく伝える。
石神は最後の手に出る。自らを花岡靖子のストーカーだとして警察に富樫を殺害したと自首したのだ。取り調べでは靖子への醜態をつき、靖子が他の男の元へ走ったことで自首したのだと言う。
湯川は石神について論理的であればどれだけ冷酷なことでもできる男だと言う。原作におけるこの言葉は石神自らが靖子を守るためにもうひとつの殺人を犯した点に向けられているが、この言葉は石神自身にも当てはまる。つまり、最適解を導くためなら自分自身すらどれだけ犠牲になっても厭わないということだ。言うまでもないが、石神にとっての最適解とは花岡親子が罪悪感を持たずに幸せに暮らしていくことだ。

四色問題

『容疑者xの献身』というタイトルは実に良くできている。ここでいうxが大文字でなく小文字なのは数学の代数を表しているのだろう。
xの値によって、解は変わっていく。

拘置所の中で石神は壁の点を見上げながら四色定理を展開させていく。四色定理とは平面上のいかなる地図も四色で塗り分けられるという定理である。ゆえに隣り合ったものが決して同じ色になってはいけない。1975年に四色定理が証明される前は四色問題と呼ばれており、『容疑者xの献身』の中でも四色問題と呼ばれている。石神と湯川が親しくなるきっかけとなったのも、石神が「四色問題の証明は美しくない」と言って再証明を試みていたからだ。
石神は四色問題に花岡靖子と自らを重ね合わせる。隣り合う者同士が同じ色になってはいけない。殺人者は自分一人だけでなければならない。

石神は花岡親子を守るために論理的にすべてを組み立て、実行した。最適解を導くために。湯川の言葉を借りれば、常人にはとてもできない、とてつもない犠牲を払って。
だが、石神はひとつのことを見落としていたのではないか。それは石神もまた意味のない人間ではないということだ。

石神は花岡親子と出会った日のことを回想する。
その日、石神は人生に絶望し、自殺を試みようとしていた。ロープを首に掛けたその時にチャイムが鳴った。
ドアを開けるとそこにいたのは花岡親子だった。引っ越しの挨拶で石神を訪れたのだ。
その瞳の美しさに石神は貫かれた。その日から花岡親子の存在は石神にとっての生きていく希望だった。だからこそ、石神にとって親子の窮地をどれだけの犠牲を払ってでも救うのは当然のことだった。今の石神の人生は花岡親子の幸せの上に成り立っているのだから。

映画の中で何ヵ所か石神の部屋の前に植えられたパンジーのカットがある。パンジーは原作には出てこない。
パンジーの花言葉は「私を想って」だが、パンジーは花の色ごとに異なった花言葉がある。映画の中では黄色のパンジーが目立つが、その花言葉は「ささやかな幸せ」だ。花岡親子と知り合ってからの石神の生活が浮かんでくる。

愛というx

さて、原作と映画では石神と花岡親子の関係が少し異なる。
映画では花岡親子にとって石神はぶっきらぼうな人物であるが、良い人だと認識されており、美里も石神に気軽に声をかけるなど、日常的に知り合いとしての付き合いをしている。
原作では花岡靖子にとって石神はただの隣人であり、高校教師ということを除けば得体の知れない人物だ。好意を持たれることに対して若干のうっとおしさすら感じている。
石神の献身に感謝しつつも、なぜ彼がそこまでして自分達を助けようとしてくれているのかわからず、不思議に感じてもいる。

石神の愛は海のように広く深い。だが、海が人を溺れさせるようにその愛の深さは花岡親子を追い詰めてもいった。xの値は愛だ。優しさも痛みも両方を併せ持つ。

原作では美里は自殺未遂を行う。
美里は母とともに富樫の殺害に荷担した。そのことで背負った罪悪感に加え、献身的に自分達を助けてくれた石神の自首。まだ中学生だ、そのことに良心の呵責が耐えられなくなったのではないか。
そしてそれを知った靖子はさらに深い傷を負う。彼女の罪悪感は富樫、石神、そして美里に対してまで負うべきものとなった(自殺未遂は映画では描かれない。映画版では普段から親しい人がそれほどの犠牲を払ったことそのものに罪悪感を覚えたと解釈することができる)。

自分のことは忘れて幸せになれという石神だったが、その代わりに償うことのできない罪を抱え続ける痛みはどれ程のものなのか。花岡親子にとっては石神は意味のない人間ではない。
靖子にとっては出口のない海の底にいるような気持ちだっただろう。
原作小説において、石神の献身の全てを知った靖子は、自らの罪悪感とは逆に石神の心には一点の曇りもないことを思い知る。

映画には小説にはない視覚的な情報もある。ここでは石神の服装に注目したい。真実が明らかになると、石神はジャケットを纏わず、白いシャツ姿になる。それは石神の心の内を表しているようでもある。犯罪者としての石神の姿が明らかになればなるほど、彼がどれ程、純粋に深く人を愛したかも明らかになってくる。
そして、それは靖子も同じだ。

慟哭の理由

湯川との最後の面会を終えた石神が連行されようとする中、白いコートを羽織った靖子が現れる。全てを知った彼女にとっては嘘の幸せの痛みより、罪を告白する方が心が救われたのだろう。
動揺を隠せない石神に、靖子は泣きなから自分も罪を償うという。
「私たちだけ幸せになるなんてそんなの間違ってます。私も償います。石神さんと一緒に罰を受けます。」
石神は完璧な解とそこへ至る完璧な数式を導き出したはずだった。花岡親子にとって幸せ以上の解はないと思っていた。そのために自らパズルのピースになり、殺人すら犯した。
だが、その献身は水泡に帰した。
全ては意味を失くした。

「なぜ?どうして?」
石神はただ狼狽し、泣き叫び、絶望の慟哭を上げ続ける。
何もかもが壊れた。愛する人の幸せを守ることも、完璧な数式が解かれたことも。石神自身が捧げた犠牲の意味も、全てが。
石神の慟哭を聞きながら湯川は顔を歪ませる。真実を追求するというのは一見、正義に見える。だが、本当にこれが正解だったのか?

石神のその後

小説は石神の慟哭の場面で幕を下ろすが、映画版ではその後に湯川と内海が帝都大学のベンチで会話を交わすシーンが追加されている。そこには依然として石神が罪を否認しているという報告が伝えられる。
「石神は花岡靖子に生かされていたんですね」
内海はそう言って空を見上げる。

そして東京湾で捜索の結果、事件の証拠が見つかるシーンがエンドロールに挿入されている。
富樫の遺体や事件の証拠品をどこに葬ったかは石神しか知らない。
慟哭の場面の後、結局、石神が自白したかどうかはわからない。原作では湯川は過去一ヶ月の新聞記事を見て、石神は他県に遺体を遺棄したと推測している。東京湾の捜索ということは石神が真実を話したのか、ただ花岡靖子への愛情ゆえに今でも否認を続けているのか…いずれにせよ、これ以降の石神は誰にもわからない。

そして、この事件は湯川の心にも深い傷を残した。『沈黙のパレード』で湯川は容疑者に自身の辛い経験として石神のことを話す。
以下の台詞は『沈黙のパレード』の小説版からの引用だ。
「僕には苦い経験かあるんです。以前にも似たようなことがありました。愛する女性のために、すべての罪を背負おうとした男がいたんです。でも僕が真相を暴いたため、その女性は良心の呵責に耐えきれなくなり、結果的に彼の献身は水泡に帰してしまいました。同じことはもう繰り返したくない、という気持ちがあります。」
そして、真相を告白するかどうかを本人に委ねる。
さらに2022年10月時点の最新作である小説『透明の螺旋』では湯川はそのスタンスを更に強めている。
事件の全てを明かそうとする女性に対して、心は楽になるかもしれないが誰も幸せにならないから秘密のままにしておくようにと諌めてもいる。
湯川にとっての最適解は全体の幸せであり、それは石神とはスタンスを異にする。湯川がこの考えに行き着いたのは石神の事件で苦味を味わったからだ。

『容疑者xの献身』に救いはあるのか

原作者の東野圭吾は『容疑者xの献身』を執筆するに当たって『シラノ・ド・ベルジュラック』のような作品を書きたいという思いがあったという。
『シラノ・ド・ベルジュラック』はエドモン・ロスタンによって書かれた戯曲で1897年に初演された。
タイトルの『シラノ・ド・ベルジュラック』は実在した詩人で作家のシラノ・ド・ベルジュラックを指している。シラノは類いまれな詩作の才能の持ち主だったが、醜い容貌のために自らの恋心を打ち明けることができない。
シラノの友人であるクリスチャンも同じ女性に思いを募らせていることを知り、シラノは二人の恋の成就のために、不器用なクリスチャンに代わって恋文を代筆するようになる。

『容疑者xの献身』は『オール讀物』に連載されていた時は『容疑者x』というタイトルだった。
石神の仕掛けた完全犯罪は解けない数式であり、パンドラの箱でもあった。
映画では湯川は内海に真実を伝えてほしいと言われ、友人として内海に事件の真相を伝えるが、原作では湯川自身が靖子が事件の全てを知らないままならあまりに石神が報われないとして真実を伝える。だが、石神の献身は湯川の想いを遥かに越えた部分にある。湯川自身「石神はあなた(靖子)が真実を知ることを決して望んでいない」と前置きしている。

この作品の中心は石神ではなく、石神の払った犠牲という名の愛だ。それを「献身」と言わずに何と言えるか?
パンドラの箱とは元はギリシャ神話でゼウスがパンドラに渡した箱のことだ。パンドラは好奇心から箱を開けてしまったために、箱の中に閉じ込められていた不幸が世界に広がってしまう。
だが、パンドラの箱の話には続きがある。パンドラがあわてて閉めた箱の底には僅かに「希望」が残っていたのだ。
湯川が開いた石神の数式はそれぞれの人生や幸せを狂わせ、償いを残した。
この行動が正解かはわからない。だが、靖子が抱えていた痛みの一部は救われるはずだ。そこに一筋の光が見える。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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