『セルビアン・フィルム』46ヵ国以上で上映禁止の残酷すぎる映画はなぜ作られたのか?

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「●●すぎる」という言い回しをよく見かける。簡単すぎる、ヤバすぎる、怖すぎる、そのいずれもが特に●●すぎることもない。
個人的には、そういったこともあってあまり好きではない言い方ではある。
だが、稀に本当に「●●すぎる」としか表現はできないこともある。

●●すぎる『セルビアン・フィルム』

今回紹介したい『セルビアン・フィルム』は正に「●●すぎる」映画だ。「残酷すぎる」「変態すぎる」他にも当てはまる言葉はいくらでもあるだろう。
当サイトでは解説や考察とともに作品のあらすじも書いていくのだが、今回は自重させていただきたい。それほどに「狂っている」としか言い様のない作品なのだ。 何しろ『セルビアン・フィルム』は46ヵ国以上で上映禁止になった。
映画作品におけるレイティングの基準が厳しくなり、年々表現としては無難な作品が増える中で『セルビアン・フィルム』はなぜその逆を歩んだのか。

監督のスルジャン・スパソイェヴィッチは今作が長編映画の監督デビュー作となる。デビュー作の評価は映画監督としてのキャリアにも強い影響を及ぼすだろう(実際にスルジャン・スパソイェヴィッチの映画監督としてのキャリアは今作と2012年に公開されたオムニバスホラー映画の『ABC・オブ・デス』内の短編を撮ったのみに留まっている)。
そのようなリスクを孕みながらもスルジャン・スパソイェヴィッチが記念すべきデビュー作を『セルビアン・フィルム』にしたのはなぜだろう?

ホラー映画の動機

ホラー映画を撮る動機は様々だ。ホラー映画はアイデア勝負の面もあり、比較的低予算で済むことからホラー映画が監督デビュー作になることも多い。
『スパイダーマン』シリーズを監督したサム・ライミもデビュー作は『死霊のえじき』というホラー映画だった。
『ロード・オブ・ザ・リング』や『キング・コング』のピーター・ジャクソンも『バッド・テイスト』という友人とともに作り上げたホラー映画でデビューしている。

中には確かにホラー映画でデビューしたものの、ホラー以外のジャンルがヒットせず、逆にホラー映画界で伝説的な存在となった監督もいる。
ゾンビ』やその後に続くシリーズをヒットさせ、数多のゾンビ映画の源流を作ったジョージ・A・ロメロがその好例だろう。ロメロのデビュー作は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』で会社勤めの傍ら、友人達と作った作品だった。
『ポルターガイスト』、『スペースバンパイア』の監督を務めたトビー・フーパーもまたホラー映画以外ではヒットを生めなかった監督だが、デビュー作のホラー映画 『悪魔のいけにえ』はもはや映画史に残る大傑作として知られており、『悪魔のいけにえ』の監督というだけでトビー・フーパーは映画史にその名を刻んだ。
またロブ・ゾンビに代表されるように、ホラー映画好きが高じて自分で撮るようになった監督もいるだろう(ロブ・ゾンビの本業が映画監督かどうかは別として)。

『セルビアン・フィルム』同様に「胸糞映画」として有名な『ファニーゲーム』を撮ったミヒャエル・ハネケにも触れておこう。ハネケは元々ホラー映画の監督ではない。また『愛、アムール』や『ピアニスト』でカンヌ国際映画祭に6度出品され、パルム・ドール2回、グランプリ1回、監督賞1回を受賞しており、世界的にも評価を得ている名監督だ。そんなハネケがなぜ『ファニーゲーム』を撮ったのか。『ファニーゲーム』はカンヌ国際映画祭ではあまりの凄惨さに上映中に席を立つ観客がいたり、ロンドンではビデオの発禁運動まで起こったという作品だ。
ただ、監督のミヒャエル・ハネケ曰く「観客を憤慨させるために作った」と述べている。
「暴力は撲滅できないものであり、痛みと他人への冒涜であることを伝えたい。だから、暴力を単なる見せ物ではなく、見終わった後に暴力の意味を再認識するものとして描かなければならない」
そう、銃撃や格闘などが作品の見せ場として与えられるエンターテインメントとしての「暴力」に気づいているかどうかだ。本当の暴力はエンターテインメントでもなく辛く痛いものだと。そのために『ファニーゲーム』の凄惨さは必要なものだったのだ。

セルビアの歴史

ただ、『セルビアン・フィルム』のスルジャン・スパソイェヴィッチは「単に衝撃を与えるためにこの映画を作ったわけではない」と語っている。それも「それは強調しておきたい」とまで述べている。
そもそも『セルビアン・フィルム』はホラーというジャンルありきで進められた企画ではない。ただスルジャン・スパソイェヴィッチが感じていた政府への不満や批判を表現するにはホラーが最も適していたということだ(とは言え、スパソイェヴィッチはホラー映画そのものへの愛情も持っている)。

セルビアは日本人にとってあまり馴染みがない国でもある。申し訳ないが、少なくとも私はその歴史や国民生活までの知識はなかった。だが、駆け足で20世紀以降のセルビアの歴史を辿っていくだけでも国は何度も戦乱や紛争に陥っている。国民は時にナチスの犠牲になったり、また圧政に苦しんだりもした。そもそもの国家の在り方自体も第二次世界大戦中には共産主義、戦後は社会主義、そして今は民主主義と目まぐるしく変わっている。加えて、コソボ紛争やユーゴスラビア紛争などの内戦の戦禍も多い。このような過酷な状態を表現するには並大抵の表現では足りない。それこそが『セルビアン・フィルム』へ繋がっていったのだろう。
スパソイェヴイッチは西欧が東欧の映画に望むのは難民や貧困を描いた作品だと感じていた。そこに一矢を報いる思いもあったに違いない。
また、表現の規制が厳しくなる中で、一方ではニュースでは戦争や暴力の映像が流される、その二面性にも疑問を感じていたという。「ならばそもそも規制など要らないのではないか?」『セルビアン・フィルム』の残酷とも言える過激な表現はその思いから描かれている。

『ソドムの市』

表面的にはあまりの残酷描写、変態描写ばかりが目立つが、その裏に社会批判を隠している映画という意味では『ソドムの市』との親和性を見出すこともできる。
ピエル・パオロ・バリゾーニが1976年に監督した『ソドムの市』もまた悪趣味で有名な作品だ。原作はマルキ・ド・サドが1785年に発表した同名小説で、18世紀のスイスの山奥で美少年、美少女を集めて変態行為に耽る権力者の様子が描かれている。
映画版では舞台を戦争が終わったばかりのイタリアに変更されており、権力者がいずれもファシストという設定にされている。この変更についてバリゾーニは『ソドムの市』に現代の消費社会への批判を込めたとも言われている。

新生児ポルノと現代人

『セルビアン・フィルム』は一人の男の地獄巡りだ。
元ポルノ俳優のミロシュは美しい妻と息子に囲まれ、幸せな暮らしを送っていた。ある時現役時代に共演した女優を通じてある男から復帰を打診される。
迷うミロシュだが、家族のために金を得たいという思いもあり、そのオファーを受け入れる。だが、そのポルノは普通のポルノではなかった。

騙され被害者となったミロシュはいつの間にか記憶を消され、気づけば加害者となっていた。

以下は私の推測に過ぎないが、被害者がいつの間にか加害者になるという意味ではセルビアの歴史と重なる部分がある。
セルビアの人々は第二次世界大戦中、ナチスにならったクロアチアの迫害によって100万人が命を落としたという。そして1990年代のクロアチア紛争やボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、再び民族同士の争いが起きる。この時、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァではセルビア人によるボシュニャク人への虐殺(スレブレニツァの虐殺)が起きている。これは第二次世界大戦以降のヨーロッパで最大の虐殺でもある。

また、殺人や拷問と共に近親相姦もこの作品に登場するが、これもかつて一つの国だった国家同士が争わねばならない様子を描いているのかもしれない。
スパソイェヴイッチが『セルビアン・フィルム』に刻み込んだ今のセルビアの置かれた現実が具体的に何であるのかは推測するしかない。だが、様々なことを考えるうちに、この映画はセルビアだけではなく、資本主義の歪みや人間の欲望なども表しているようにも見える。

ミロシュは穏やかな日々を望みながらも報酬のために記憶を失わされ、薬漬けにされ、気づけばこれ以上ない地獄の中にいる。

『セルビアン・フィルム』における最もショッキングなシーンが生まれたばかりの新生児をレ●プする場面だろう。「新生児ポルノ」と劇中では言われているが、スパソイェヴイッチはこの場面は「人々は生まれた瞬間から搾取されていること」を表現しているという。
人は誰も生まれる国や時代を選ぶことはできない。「生まれた瞬間から搾取されている」その感覚は日本人の私たちにも共鳴できるところがあるのではないか。いや今の日本だからこそ、余計にそう感じるかもしれない。

『セルビアン・フィルム』

『セルビアン・フィルム』は「残酷すぎる」「残酷すぎる」の一言で終わらせていい映画ではない。
「観るべきではない」「観たのを後悔した」そんな感想もあるが、しかしそこに込められた思いを知ると、今だからこそ観るべき作品とも言えるだろう。

※ただ本当に残酷すぎるので、未成年や心臓の弱い人、グロテスクな表現が苦手な人には視聴を控えて頂きたい。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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