『ザ・フライ』

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※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


私が映画に夢中になりだしたのは小学生のころだ。小学生から中学生の頃は木曜から日曜まで毎週必ずテレビから流れる映画を観ていた。
木曜洋画劇場、金曜ロードショー、ゴールデン洋画劇場、日曜洋画劇場。
週の半分以上のゴールデンタイムに映画が放送されるとは、サブスクリプション全盛の今ではとても考えられないことだ。名作からB級エロ映画まで様々な作品を観た。『フォレスト・ガンプ/一期一会』、『ザ・ロック』、『バッド・ボーイズ』、『スピーシーズ』、『羊たちの沈黙』、『トゥルーライズ』などはそうした映画のテレビ放送で出会った作品たちだ。やはりそれらは未だに忘れることのできない強烈なインパクトがあった。
そして、もう一つ外すことのできない作品がある。それが『ザ・フライ』だ。

『ザ・フライ』

『ザ・フライ』は1986年に公開されたデヴィッド・クローネンバーグ監督、ジェフ・ゴールドブラム主演のSFホラー映画。1958年に公開された『ハエ男の恐怖』のリメイク作だ。『ザ・フライ』はほのグロテスクさと哀しさで一度観たら絶対に忘れられない映画になっている。

天才科学者のセスは物体のテレポーテーションを研究していた。転送実験では無機物の転送には成功するものの、有機物の転送は成功せず、転送実験を試したヒヒは表皮が裏返る結果となってしまった。
そんな時、知り合ったジャーナリストのベロニカからヒントを得たセスはついに生物での転送実験に成功する。ベロニカとも仲を深めていくセス(ちなみにセスを演じたジェフ・ゴールドブラムとベロニカを演じたジーナ・デイヴィスはこの時プライベートでも恋人同士だった)。
しかし、ベロニカと彼女の以前の恋人であるステイシスが未だに親密にいることに嫉妬したセスはやけになり酔った勢いで自らを実験台にした転送実験を行う。実験は成功、セスは驚異的な精力と身体能力を身に付ける。
しかし、ある日を境に硬い体毛が生え、歯は抜け、爪は取れていく。そしてだんだんセスの体はハエへと変化していき、次第にセスの理性も失われていく。

ジョルジュ・ランジュラン

『ザ・フライ』の原作はジョルジュ・ランジュランが1957年に出版した短編小説である『蠅』。
ランジュランは1907年に生まれ、第二次世界大戦中にはイギリスの諜報機関に勤めていた。フランス語が堪能だったこともあり、ランジュランはフランスへのスパイ活動が任務だったという。『蠅』に用いられる物質転送装置のアイデアなどもそのようなスパイ活動の経験が根底にあるのかもしれない。
同じくランジュランの短編小説『彼方のどこにもいない女』では、長崎への原爆投下の爆心地にいた女性が、ブラウン管の中にのみ存在できるようになってしまったというちょっと荒唐無稽な作品だ。彼女は核兵器の廃絶を訴えるが、その声虚しく、街は核兵器で滅びてしまう。科学技術が創造主を滅ぼすという展開は『ザ・フライ』も同じだ。

だが、行き過ぎた科学は悪なのか?クローネンバーグは「私の映画に登場する科学者は皆私自身の投影だ」という。
「優れた科学者は優れた作家や芸術家と同じくらい創造的で狂っているべきだと思う」

デヴィッド・クローネンバーグ

デヴィッド・クローネンバーグは1943年にカナダのトロントで生まれた。幼い頃からSF小説と科学に魅せられ、フィリップ・K・ディックに夢中になる傍らで顕微鏡で昆虫を観察したり、バイクや車のメカニックにも熱中した(これらの要素が全て『ザ・フライ』には揃っている!)。
大学では科学の道を志したクローネンバーグだが、実際の授業の中身に失望し、大学の途中で文学部に専攻を変え、自らの手で映画を撮り始める。

クローネンバーグにとって初のヒットは超能力者のバトルを描いた『スキャナーズ』だった。その後の『ヴィデオドローム』は興行的には振るわなかったが、同年に公開された『デッドゾーン』はハリウッドでも成功を収め、クローネンバーグの元には『トップガン』や『刑事ジョン・ブック 目撃者』、『ビバリーヒルズ・コップ』などの監督へのオファーもあったという。もちろんクローネンバーグの作風から考えてそれらのオファーを断ったのは想像に難くない。その中で、『トータル・リコール』の監督には内定し、準備も進めていた。『トータル・リコール』の原作はフィリップ・K・ディック。クローネンバーグにとっては思い入れのある企画だったに違いないが、プロデューサーとの意見の対立によってクローネンバーグは監督を降板することになる。
こうして1年を無駄にしてしまうことになったクローネンバーグだったが、彼のもとに持ち込まれた新たな企画が『ハエ男の恐怖』のリメイクだった。こうして『ザ・フライ』の製作は始まっていく。

強烈なグロテスク描写

『ザ・フライ』で主人公のセスを演じたのは『ジュラシック・パーク』シリーズのイアン・マルコム博士役で有名なジェフ・ゴールドブラム。ハンサムな彼の顔が徐々にハエへ変貌していく様子はあまりにショッキングだ。
まず特筆すべきは本作の特殊効果だろう。オリジナル版の『ハエ男の恐怖』は頭のみがハエになるという、「ハエ男」とは言っても可愛げのあるものだったが、『ザ・フライ』ではセスが段々ハエに変わっていく様を丁寧に細かく、グロテスクに描いている。
このあたりはクローネンバーグの本領発揮といったところだろう。1981年に公開された『スキャナーズ』や1983年の『ビデオドローム』でもクローネンバーグは精神の変化を肉体の変容という形で執拗に描いてきた。
そのほぼ全てがCGではない特殊メイクや特殊効果を駆使して表現されているのだが、かえってそれがえも言われぬ生々しさを演出しており、今作の強烈なグロテスクさに貢献しているように思う。

HIVのメタファー

さて、公開当時から『ザ・フライ』におけるセスはHIVのメタファーではないかと言われている。映画が公開された1980年代後半はアメリカでエイズが社会問題になっていた。
確かに予期せぬものとの合体は相手がHIVに感染していても気づかぬままセックスしてしまうということにも似ている。そして理性をなくし、ベロニカを自身の再人間化の道具にしようとしたのは「オス」ゆえの生存本能からであり、HIVのメタファーと言われるのも理解は出来る。
だが、クローネンバーグはHIV説を否定しており、『ザ・フライ』で描かれているのは老化への恐怖だという。
確かに劇中でも徐々に体に異変が起きるセスは不安と恐怖にかられて、転送実験の詳細を確認する画面がある。すると、転送ポッドに知らぬ間に一匹のハエが混じっていることが明らかになった。

科学者たちはみなヒーロー

普通の映画ならここで科学技術への批判やセスもなんとか人間に戻ろうとするのだろうが、クローネンバーグはそうではない。
「私の映画に登場する科学者たちはみなヒーローだ」とまで言うのだから。「彼らは限界を超えるために危険を冒し、傷つき、他人を傷つける」「神を信じる人は人間には知ってはならない領域があるというが、私は人間は何でも知っているべきだと思う」

セスは人間に戻ることを諦め、転送によってベロニカと合体することによって新たな人間になろうとする。科学者はヒーローであり革命家なのだから。クローネンバーグは自身の映画に登場する科学者はすべてクローネンバーグ自身の投影だと述べている。
無理やりベロニカを転送装置に押し込むセスだが、ステイシスの反撃により、セスはなんと転送装置と合体してしまい、もはや人間はおろか、生物とすら呼べないものになってしまう。

ハッピーエンドか悲劇か

ベロニカはセスにとどめを刺そうとするが、どうしても躊躇してしまう。セスの姿はあまりに憐れだ。そしてそうなって初めて悲しいほどまだセスに情が残っている自分にも気付かされる。
しかし、あれほど生に執着していたセス自身がベロニカの銃を自らの頭に向け、殺してくれと懇願する。もはや生きることは絶望でしかなくなった。セスに残された唯一の希望は死ぬことだけだったのだ。
ベロニカは泣きながらセスの最後の願いを受け入れる。

個人的には数多くの映画を観てきた中でも、これほど哀しく、美しい結末の映画はないと思う。
『ザ・フライ』は一見するとホラー映画だ。しかし、その実はラブストーリーであり、詩的な作品でもある。
クローネンバーグは自らの作品をを「ホラー映画という看板を利用しているだけ」だと語っている。あくまでホラー的な表現は表向きのものであって、その本質は芸術作品だというのだ。
『ザ・フライ』を観るとその言葉の意味がよくわかる。

さらにクローネンバーグはこのラストシーンについても次のように語っている。
「彼は死んだんじゃない、別の次元へ生まれ変わったんだ。私にとってはハッピーエンドだ」

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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